長編小説

彼女がドーナツを守る理由 34

2024/8/16

─────第二章────  定期購読している文芸誌に応募していた僕の作品が二次選考まで残っていた。五十編ある候補作の中のひとつに過ぎなかったが、それでもここまで残ったのは初めてのことで、僕は飛び上がるほど(いや実際飛び上がった)嬉しかった。思わずイツキ叔父に電話をすると、お祝いをしてくれることになった。  僕は相変わらずの生活を続けていた。仕事でアクセサリーを作り、たまにマークと飲み、家では本を読むか小説を書くかの生活だ。ただ、以前よりも机に向かっている時間が長くなった。 モカと別れてから二年が経っていた ...

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長編小説

彼女がドーナツを守る理由 33

2024/8/16

 外側の世界に立つと、強く吹く風の音が耳を打った。僕はその「ビュウウ」という暴力的な音にしばし耳を傾けた。このように強く吹く自然な風というものは、僕には馴染みのないものだ。初めて聞いた時には何の音かも分からなかった。それが風の音だということも、風というものは自然に吹くものだということも、モカに教えてもらった。 トンネルの出口のある廃工場の敷地を出て人気のない道を歩いた。今が何時なのか分からなかった。財布は持ってきていたが、腕時計と携帯電話は忘れた。家を出たのは何時だっただろうと考えたが、それも分からなかっ ...

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長編小説

彼女がドーナツを守る理由 32

2024/7/22

 リビングのソファに座っていると、家中どこもかしこも静まり返って、家というのはこんなにも静かだっただろうかと不意に思った。休日に家にいるのは久しぶりのことだった。 テレビ台が埃を被ってうっすらと白くなっている。けれど立ち上がって拭きにいく気になれなかった。テレビをつけ、幾つかのチャンネルを見てみる。クイズと食べ歩きグルメとドキュメンタリーをやっていた。少しもおもしろくないのですぐに消した。元々テレビはあまり見ない。 台所で冷蔵庫のモーターが低く唸る。聞こえる音といえばそれだけだった。暇だった。暇には慣れて ...

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長編小説

彼女がドーナツを守る理由 31

2024/6/16

 意を決してトンネルの外に出ると、驚いたことにモカはそこにいた。崖の淵の少しばかり手前に、うつむいて座っている人影があった。まるで迎えが来ないことに失望した小さな女の子のようだった。ひとりきりで、崩れ落ちて重なった灰色のブロックの上に、彼女は座っていた。その姿は僕と同じくらいに悲しげに見えた。 近付いていっても、モカは振り向いたりしなかった。「モカ」と僕は呼びかけた。モカの肩がピクリと動いたが、それ以上の反応はなかった。モカの後ろ姿に向かって、僕は続けた。「僕はやっぱり諦められないよ。僕たち二人のために世 ...

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長編小説

彼女がドーナツを守る理由 30

2024/6/16

 雨は嫌いだわ、と彼女は言っていた。  ザアア、と激しい雨の音が、僕の身体を優しく包み込み、脳を満たして、思考を程よく鈍らせる。  モカが雨を嫌いな理由は、ロングスカートの裾が濡れるからだった。モカはいつも長いスカートをはいていた。綺麗な色の薄い布を重ねた、踊り子の衣装のように軽やかなスカート。好んで着けていた金のアクセサリーや長く艶やかな黒髪、それに一見近寄りがたいような美貌と相まって、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。以前モカが打ち明けてくれた話によると、それらはモカが計算して身に纏っているものらしか ...

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長編小説

彼女がドーナツを守る理由 29

2023/9/30

「もう来ないでほしいの」 と静かに言ったモカの言葉はあまりに突然で、僕は一瞬、それはこの外側の世界にだけある何かを指す特有の言葉なのかと思った。しかしモカの城であるこの占いの店の、カウンターの向こうにいる彼女のきつく噛みしめた唇や、僕を拒むような眼差しから、それがそのまんまの意味なのだと分かった。  もう来ないでほしいの。  僕は入り口のドアを潜ったその場所から、まるで結界でも張られているようにその先に踏み入ることができなくなった。一週間ぶりに触れられるはずだったモカがものすごく遠い。二人の間にある三メー ...

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長編小説

彼女がドーナツを守る理由 28

2023/8/2

 通りは秩序を失った群衆でごった返していた。警笛を鳴らして交通整理をしようとする警察官や、「救急隊はまだか!」などと飛び交う声から、大きな事故があったようだと推測できた。いつもなら気持ち悪いくらいにスムーズに流れている人の波が、押し合いぶつかり合い、苛立ちや不満をむき出しにして、収拾のつかない状態になっている。車の流れは完全に止まり、あちこちの窓から不安そうな顔がのぞいていた。上空では、報道機関だろうか、ヘリコプターが旋回している。まるで世紀末のような混乱ぶりなのに、街の明かりは相変わらず煌びやかで、その ...

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長編小説

彼女がドーナツを守る理由 27

2023/6/4

「ゴルジ―ラ」「ゴルジ―ラ」「そう」「それがこれ」「うん」 僕の前にはほとんど黒に近い焦げ茶色の、見慣れた液体が入ったカップがある。湯気と共に立ち昇る香りが芳しい。「ヨウの世界では何ていうの?」「コーヒー」「こーひー?」 ちょっとぎこちない発音でモカが繰り返す。小さな子供みたいだ。思わず笑みがこぼれる。「そうそう」「じゃあこれは?」 とモカはテーブルの上のシュガーポットを指差した。「これは、砂糖」「さとう」「うん。こっちでは?」「〇△☆×▢」「え、待って、全然分からない」 アハハ、と笑うモカの頬がほんのり ...

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短編・連作短編小説

(後編)ダイニングバー・ハラワタ~吸血鬼さちこの何でもない日常~

2023/1/19

「これはこれは、さちこちゃん」 伯爵はわざとらしく驚いてみせ、残忍にしか見えない笑顔で嬉々として言った。「何してるんですか、こんなところで! さては、またストーキングしてたんでしょう!」「人聞きが悪いなあ。偶然だよ、偶然」 偶然だという伯爵の言葉を私は全然信用していなかった。このシーカー伯爵というのは御年八百歳になる吸血鬼である。古株であるだけに吸血鬼としての能力も高く、吸血鬼社会では一目置かれている存在だ。残忍さでもピカイチで、気に入った乙女がいれば同意もなしに片っ端から仲間にしてしまう外道である。仲間 ...

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短編・連作短編小説

(前編)ダイニングバー・ハラワタ〜吸血鬼さちこの何でもない日常〜

2023/1/19

 ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』が好きだ。言わずと知れた吸血鬼文学の名作。私たちにとってのバイブルといってもいいだろう。中世ルーマニアとイギリスの、陰鬱で薄暗く、湿ったような空気感。月明りだけが頼りの暗い墓所を彷徨う死装束をまとった白い影。棺の中に横たわる美しき不死者。暗闇に浮かび上がる二つの赤い瞳、じわじわと浸食するように忍び寄る吸血鬼の恐怖。 そして、『ドラキュラ』は古典だからこそいっそう魅力的なのである。レンガ造りの城やドレスをまとった貴婦人、たちこめる霧の中にぼんやりと灯るガス灯の明かり。馬車 ...

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読書感想 バナナの魅力を100文字で伝えてください 誰でも身につく36の伝わる法則 柿内尚文

2022/11/19

リンク 人間関係で起こるトラブルの大半は、『伝わらない/伝わっていなかった』ことが原因なのだそうです。 あんなつもりで言ったんじゃないのに。イマイチ理解できなかった。そのくらい、言わなくたって分かって ...

読書感想 パラレルワールド・ラブストーリー 東野圭吾

2022/11/15

リンク この『パラレルワールド・ラブストーリー』は、東野圭吾さんの作品の中で私が1番好きな小説です。パラレルワールドがキーになっていて、SF好きにはたまらんのではないでしょうか。初めて読んだ時、「まさ ...

読書感想 アリス殺し 小林泰三

2022/11/12

リンク 『不思議の国のアリス』をモチーフにしたミステリーです。物語中では『夢の世界』と『現実世界』の二つの世界が描かれているのですが、『夢の世界』のほうはルイス・キャロルのアリスの世界がそのまま舞台に ...

読書感想 私の頭が正常であったなら 山白朝子

2022/11/10

リンク 八編の短編から成る短編集です。 突然幽霊が見えるようになった夫婦(『世界で一番、みじかい小説』)、首から上がない鶏を可愛がる少女(『首なし鶏、夜をゆく』)、酔っぱらうと時間を行き来する女性(『 ...

感想 怨霊奥様 若狭たけし

2022/12/11

リンク 漫画って(漫画に限らず映画でも小説でも)、ジャンルというか設定やパターンはもう出尽くしていて、新しい漫画が出ても、きっとどこかのジャンルに当てはまるのではないでしょうか。 この漫画は、新婚夫婦 ...

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積読が減らない理由

2022/10/18

積読(つんどく)。 おそらく読書好きの間でしか通じない言葉。 意味は、『本を買って、読まずに積んだままにしていること』です。「積んどく」に掛けた表現なのだそう。 本好きの人のお宅にはきっとあるのではな ...

クッキーのお話

2022/10/11

先日、ステラおばさんのクッキーを買いました。何となく食べたくなって。私の住んでいるところは田舎なので、ステラおばさんの店舗などはなく、スーパーかネットで箱入りの詰め合わせを買うしか方法がありません。近 ...

万年筆を使う理由~スーベレーンは最高の巻~

2022/8/12

普段手書きをする時は万年筆を使っています。万年筆ってカッコイイですよね。一時期はその見た目のカッコよさに惹かれて、万年筆の雑誌を眺めては、あれも、これも、いつかは買いたい! と思っていたものです。とは ...

お姑さんとミトコンドリアの意外な関係

2022/8/12

以前、同じ職場で働いていた女性が、休憩時間にこぼしていたのです。「お義母さんがお義姉さんの子供のほうを可愛がるのが嫌。こっちは同居してるし、長男の子供なのに」お姑さんが同居している女性の子供よりも、嫁 ...

紳士ノート入手してみた。使った感想!

2022/8/12

本好きな人って高確率で文具好きではありませんか、と誰かが言っていましたが、本当にそう思います。私も本好きで文具好きのひとりです。 意味なく行きたい、本屋と電気屋と文具屋。 ただ見るだけのつもりで入って ...

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(後編)ダイニングバー・ハラワタ~吸血鬼さちこの何でもない日常~

2023/1/19

「これはこれは、さちこちゃん」 伯爵はわざとらしく驚いてみせ、残忍にしか見えない笑顔で嬉々として言った。「何してるんですか、こんなところで! さては、またストーキングしてたんでしょう!」「人聞きが悪い ...

(前編)ダイニングバー・ハラワタ〜吸血鬼さちこの何でもない日常〜

2023/1/19

 ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』が好きだ。言わずと知れた吸血鬼文学の名作。私たちにとってのバイブルといってもいいだろう。中世ルーマニアとイギリスの、陰鬱で薄暗く、湿ったような空気感。月明りだけが頼 ...

掌編小説 シャッターチャンスマン

2022/12/27

 初めて彼を見た時、カッコいい人だなと思った。 時が止まって見えた。 いや、実際止まっていたのだ。ただし止まっていたのは時間ではなく、彼だけだったのだけど。 彼が朝日に輝く街路樹を見上げた時だった。  ...

とある春の変な一日

2022/12/26

 春は眠い、と私が言うと、おまえはどの季節でも良く寝てるじゃないか、と康夫は言った。それはそうだけど、でも春は特別眠いのだ。暖かな日差し、新緑の薫りを含んだやわらかい空気。そよそよと吹く風は心地良く肌 ...

鮮血ジュースはヘルシーですか~吸血鬼さちこの何でもない日常~

2022/12/11

 昨日テレビで言っていた。健康の秘訣は早寝早起きである、と。  毎週欠かさず観ているバラエティー番組だった。その番組では、毎週あらゆる分野の専門家をゲストに招き、役に立ったり立たなかったり、ありがたか ...

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彼女がドーナツを守る理由 34

2024/8/16

─────第二章────  定期購読している文芸誌に応募していた僕の作品が二次選考まで残っていた。五十編ある候補作の中のひとつに過ぎなかったが、それでもここまで残ったのは初めてのことで、僕は飛び上がる ...

彼女がドーナツを守る理由 33

2024/8/16

 外側の世界に立つと、強く吹く風の音が耳を打った。僕はその「ビュウウ」という暴力的な音にしばし耳を傾けた。このように強く吹く自然な風というものは、僕には馴染みのないものだ。初めて聞いた時には何の音かも ...

彼女がドーナツを守る理由 32

2024/7/22

 リビングのソファに座っていると、家中どこもかしこも静まり返って、家というのはこんなにも静かだっただろうかと不意に思った。休日に家にいるのは久しぶりのことだった。 テレビ台が埃を被ってうっすらと白くな ...

彼女がドーナツを守る理由 31

2024/6/16

 意を決してトンネルの外に出ると、驚いたことにモカはそこにいた。崖の淵の少しばかり手前に、うつむいて座っている人影があった。まるで迎えが来ないことに失望した小さな女の子のようだった。ひとりきりで、崩れ ...

彼女がドーナツを守る理由 30

2024/6/16

 雨は嫌いだわ、と彼女は言っていた。  ザアア、と激しい雨の音が、僕の身体を優しく包み込み、脳を満たして、思考を程よく鈍らせる。  モカが雨を嫌いな理由は、ロングスカートの裾が濡れるからだった。モカは ...

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