2024/8/16
─────第二章──── 定期購読している文芸誌に応募していた僕の作品が二次選考まで残っていた。五十編ある候補作の中のひとつに過ぎなかったが、それでもここまで残ったのは初めてのことで、僕は飛び上がるほど(いや実際飛び上がった)嬉しかった。思わずイツキ叔父に電話をすると、お祝いをしてくれることになった。 僕は相変わらずの生活を続けていた。仕事でアクセサリーを作り、たまにマークと飲み、家では本を読むか小説を書くかの生活だ。ただ、以前よりも机に向かっている時間が長くなった。 モカと別れてから二年が経っていた ...
2024/8/16
外側の世界に立つと、強く吹く風の音が耳を打った。僕はその「ビュウウ」という暴力的な音にしばし耳を傾けた。このように強く吹く自然な風というものは、僕には馴染みのないものだ。初めて聞いた時には何の音かも分からなかった。それが風の音だということも、風というものは自然に吹くものだということも、モカに教えてもらった。 トンネルの出口のある廃工場の敷地を出て人気のない道を歩いた。今が何時なのか分からなかった。財布は持ってきていたが、腕時計と携帯電話は忘れた。家を出たのは何時だっただろうと考えたが、それも分からなかっ ...
2024/7/22
リビングのソファに座っていると、家中どこもかしこも静まり返って、家というのはこんなにも静かだっただろうかと不意に思った。休日に家にいるのは久しぶりのことだった。 テレビ台が埃を被ってうっすらと白くなっている。けれど立ち上がって拭きにいく気になれなかった。テレビをつけ、幾つかのチャンネルを見てみる。クイズと食べ歩きグルメとドキュメンタリーをやっていた。少しもおもしろくないのですぐに消した。元々テレビはあまり見ない。 台所で冷蔵庫のモーターが低く唸る。聞こえる音といえばそれだけだった。暇だった。暇には慣れて ...
2024/6/16
意を決してトンネルの外に出ると、驚いたことにモカはそこにいた。崖の淵の少しばかり手前に、うつむいて座っている人影があった。まるで迎えが来ないことに失望した小さな女の子のようだった。ひとりきりで、崩れ落ちて重なった灰色のブロックの上に、彼女は座っていた。その姿は僕と同じくらいに悲しげに見えた。 近付いていっても、モカは振り向いたりしなかった。「モカ」と僕は呼びかけた。モカの肩がピクリと動いたが、それ以上の反応はなかった。モカの後ろ姿に向かって、僕は続けた。「僕はやっぱり諦められないよ。僕たち二人のために世 ...
2024/6/16
雨は嫌いだわ、と彼女は言っていた。 ザアア、と激しい雨の音が、僕の身体を優しく包み込み、脳を満たして、思考を程よく鈍らせる。 モカが雨を嫌いな理由は、ロングスカートの裾が濡れるからだった。モカはいつも長いスカートをはいていた。綺麗な色の薄い布を重ねた、踊り子の衣装のように軽やかなスカート。好んで着けていた金のアクセサリーや長く艶やかな黒髪、それに一見近寄りがたいような美貌と相まって、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。以前モカが打ち明けてくれた話によると、それらはモカが計算して身に纏っているものらしか ...
2023/9/30
「もう来ないでほしいの」 と静かに言ったモカの言葉はあまりに突然で、僕は一瞬、それはこの外側の世界にだけある何かを指す特有の言葉なのかと思った。しかしモカの城であるこの占いの店の、カウンターの向こうにいる彼女のきつく噛みしめた唇や、僕を拒むような眼差しから、それがそのまんまの意味なのだと分かった。 もう来ないでほしいの。 僕は入り口のドアを潜ったその場所から、まるで結界でも張られているようにその先に踏み入ることができなくなった。一週間ぶりに触れられるはずだったモカがものすごく遠い。二人の間にある三メー ...
2023/8/2
通りは秩序を失った群衆でごった返していた。警笛を鳴らして交通整理をしようとする警察官や、「救急隊はまだか!」などと飛び交う声から、大きな事故があったようだと推測できた。いつもなら気持ち悪いくらいにスムーズに流れている人の波が、押し合いぶつかり合い、苛立ちや不満をむき出しにして、収拾のつかない状態になっている。車の流れは完全に止まり、あちこちの窓から不安そうな顔がのぞいていた。上空では、報道機関だろうか、ヘリコプターが旋回している。まるで世紀末のような混乱ぶりなのに、街の明かりは相変わらず煌びやかで、その ...
2023/6/4
「ゴルジ―ラ」「ゴルジ―ラ」「そう」「それがこれ」「うん」 僕の前にはほとんど黒に近い焦げ茶色の、見慣れた液体が入ったカップがある。湯気と共に立ち昇る香りが芳しい。「ヨウの世界では何ていうの?」「コーヒー」「こーひー?」 ちょっとぎこちない発音でモカが繰り返す。小さな子供みたいだ。思わず笑みがこぼれる。「そうそう」「じゃあこれは?」 とモカはテーブルの上のシュガーポットを指差した。「これは、砂糖」「さとう」「うん。こっちでは?」「〇△☆×▢」「え、待って、全然分からない」 アハハ、と笑うモカの頬がほんのり ...
(後編)ダイニングバー・ハラワタ~吸血鬼さちこの何でもない日常~
2023/1/19
「これはこれは、さちこちゃん」 伯爵はわざとらしく驚いてみせ、残忍にしか見えない笑顔で嬉々として言った。「何してるんですか、こんなところで! さては、またストーキングしてたんでしょう!」「人聞きが悪いなあ。偶然だよ、偶然」 偶然だという伯爵の言葉を私は全然信用していなかった。このシーカー伯爵というのは御年八百歳になる吸血鬼である。古株であるだけに吸血鬼としての能力も高く、吸血鬼社会では一目置かれている存在だ。残忍さでもピカイチで、気に入った乙女がいれば同意もなしに片っ端から仲間にしてしまう外道である。仲間 ...
(前編)ダイニングバー・ハラワタ〜吸血鬼さちこの何でもない日常〜
2023/1/19
ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』が好きだ。言わずと知れた吸血鬼文学の名作。私たちにとってのバイブルといってもいいだろう。中世ルーマニアとイギリスの、陰鬱で薄暗く、湿ったような空気感。月明りだけが頼りの暗い墓所を彷徨う死装束をまとった白い影。棺の中に横たわる美しき不死者。暗闇に浮かび上がる二つの赤い瞳、じわじわと浸食するように忍び寄る吸血鬼の恐怖。 そして、『ドラキュラ』は古典だからこそいっそう魅力的なのである。レンガ造りの城やドレスをまとった貴婦人、たちこめる霧の中にぼんやりと灯るガス灯の明かり。馬車 ...