「これはこれは、さちこちゃん」
伯爵はわざとらしく驚いてみせ、残忍にしか見えない笑顔で嬉々として言った。
「何してるんですか、こんなところで! さては、またストーキングしてたんでしょう!」
「人聞きが悪いなあ。偶然だよ、偶然」
偶然だという伯爵の言葉を私は全然信用していなかった。このシーカー伯爵というのは御年八百歳になる吸血鬼である。古株であるだけに吸血鬼としての能力も高く、吸血鬼社会では一目置かれている存在だ。残忍さでもピカイチで、気に入った乙女がいれば同意もなしに片っ端から仲間にしてしまう外道である。仲間にした乙女は自分の城に囲い、放蕩の限りを尽くして遊び暮らす。かくいう私も百十年前に伯爵の餌食になった乙女のひとりだ。吸血鬼にされてからは行くところもないので伯爵の城で暮らしたが、三年後に嫌気が差して城を出た。それ以来、用もないのにこのようにまわりをウロチョロしてくるのである。しかしそれは私に執着しているとかいうわけではなく(カノジョなら他にもたくさんいるので)、伯爵くらいになればどこへでも瞬時に移動できるので単なる気まぐれなのだろう。里子に出した猫の様子を見に行くような、きっとそんなかんじだ。私としては迷惑極まりない。
「あれ、ミーナ?」
と後ろから声がした。振り返ると、踊り狂っていたはずのジョナサンがいつの間にかそこにいた。
「どうしたの、知り合い?」
「ミーナ……?」
伯爵が言い、ニタアと笑った。いつ見ても感じの悪い笑顔だ。笑っているのにこんなに凶悪な顔になる人が他にいるだろうか。
「おや、君は人違いをしているんじゃないかい? この女性の名前はさちこ……」
「あ、あ、あなたのほうこそ人違いですー! さよならー!」
私はジョナサンを引っ張ってクラブを後にした。
帰宅後、部屋で化粧を落としていると、窓のほうからコツンと音がした。カーテンを開けると、窓の外にシーカー伯爵が立っていた。
「キャー!」
私はすぐさまカーテンを閉めた。アパートの二階なのでつい油断してしまった(しかもわざわざベランダのない窓のほう!)。そういえば伯爵にとって空中に浮かぶことなど朝飯前なのだ。コツンコツンと、軽く、しかし執拗に窓がノックされる。
「いーれーてー」
「絶対嫌です! 帰ってください!」
「さちこちゃーん」
「……」
無視していると、窓の外は静かになった。そのかわりに、
──今日一緒にいたのは彼氏かい?
伯爵はテレパシーを使って話し掛けてきた。
──まだ友達ですよ。伯爵には関係ないじゃないですか。放っておいてください。
私もテレパシーを使って応戦する。テレパシーは伯爵に吸血鬼にされた時に備わってしまった能力のひとつだ。といってもテレパシーなんて伯爵相手にしか使うことがないので、無用の長物でしかないのだが。
──まだ、ねえ。あんな若造さちこちゃんにはふさわしくないよ。どうだい、そろそろ私の城に帰ってこないかい?
──だからずっと嫌だって言ってるじゃないですか! 百年以上も!
──つれないなあ。私といると楽しいよ。毎晩宴だよ。
──結構です。帰ってください。
──ヤレヤレ、分かったよ。あ、でもさちこちゃん、ひとつだけ言わせておくれ。
──何ですか。
──私のイメージでは、君はミーナよりもルーシーなんだけどなあ。
「帰れ!」
窓にクッションを投げつけながら怒鳴ると、キィ、パタタ……と音を立てて伯爵は帰っていった。伯爵はわざわざコウモリに変身して帰っていったのだった。
それからも私とジョナサンは逢瀬を重ねた。会うのはいつも夜なので──あの”事件”以来、私は早寝早起き健康法をすっぱりと止めた(いくら健康になったところで日に焼かれて死んだのでは元も子もない)。そしてまた以前のように夜型生活をしている。そう、まっとうな吸血鬼らしく──夜景を見たり、ドライブをしたり、映画を観にいったりした。昼に会わないかと誘われることもあるが、何かと理由をつけて頑なに断っている。
しかしせっかく夜に出歩くのに、ジョナサンはあまり人間を狩りたがらなかった。ある夜、私が彼の真似をして、
「ちょっと飲み物取ってくる」
と、夜景に見惚れ油断しきっている人間を仕留めに行こうとすると、
「いいよ、俺が」
とジョナサンは人間たちが多くいるほうへ歩いていった。待っていると、彼は缶コーヒーを二つ手に持って帰ってきた。ボケなのか本気なのか分からなかったのでその時はお礼を言って頂いたが、その後も彼のほうから人間を狩ろうと言い出すことはまずなかった。
思うに、それには理由があった。まず、彼は空を飛ぶことができないようだった。彼を吸血鬼にした吸血鬼が、その能力を与えなかったのだろう。それに彼はあまり体力があるとは思えなかったし、力も私より弱かった。これでは吸血鬼として生きるのに難儀するだろうと心配になるのだが、本人はさして気にする風でもなくいつも陽気に振る舞っている。
またある夜は、ひょんなことから彼の本当の名前を知ることとなった。レンタルビデオ店に行った際、カウンターに差し出された彼の会員証に、『サカタケンゴロウ』と記入されているのを見てしまったのだ。これについては、まあ私も『ミーナ』と偽名を使っていることだし、見なかったことにして追及はしていない。
「灯りが綺麗だね」
その夜私たちは、埠頭で夜の海に浮かぶ灯りを眺めていた。漁船らしき何艘かの小舟が灯している小さな灯りや、ライトアップされた橋が水面に落とす光、そしてさざめく波にチラチラと反射する月明り。なかなかロマンチックな光景に、私の胸は人間の乙女だった頃のようにときめいた。
「ミーナはさ、百二十八歳って言ってたけど……」桟橋に並んで座ったジョナサン──サカタケンゴロウ──はもったいぶった口調で言った。「本当は何歳なの?」
「え?」
私はしばし彼の顔をまじまじと見つめてしまった。この人は何が言いたいんだろう、と思いながら。
「百二十八歳よ」
「うん、そうだよね、そうなんだけどさ……」
彼は気まずそうに頭をかいた。それから思い切ったように私に向き直り、真剣な眼差しで私を見つめた。
「俺、ミーナのこと本気なんだ。だからお互いのこと、ちゃんと知っておきたいんだ」
だったらまず自分の本名を名乗ったらどうだと思いながら、しかし私は穏やかに微笑んで彼に言った。
「そういうあなたは何歳なの?」
「俺は二十五歳だよ」
「ああー……なるほど」
見たところ彼は二十四、五歳だ。だから吸血鬼になって本当に間もないのだろう。吸血鬼としての意識が低いのもうなずける。
「ヴァンパイアもさ、実はもうやめようと思ってる」
「……ん?」
「あ、ミーナはさ、まだ若いし、可愛いからいいと思うんだよ。『ヴァンパイア』の子って可愛いし。でも俺は三十歳手前の、普通の地味な会社員だし」
「ちょっと待って。やめられるものなの?」
「やめられるよ? コスプレだし」
「はあ?」
「ほら」
そう言ってジョナサンは鋭く尖った犬歯をつまんで引っこ抜いてみせた。
「きゃああ!」
「目もカラコンだし」
「うそでしょ……」
ははは……と笑いながら、彼は引っこ抜いた歯をポケットにしまった。
「まあ、本当にヴァンパイアになれるものならなりたいけどね。そんなの夢の話だし」
「本当に?」
私はジョナサンに尋ねた。
「本当に、なりたい?」
真剣に私は彼に訊いた。もしなりたいと彼が答えたら、仲間にするつもりだった。『本物』になれば、彼はきっともっと素晴らしくなるだろう。彼の美しさは永遠のものとなり、俗社会から解放されて(というか昼間の社会では生きられなくなる)、夜の世界を自由に飛び回るのだ。私と共に。
ジョナサンは私の顔をじっと見つめていた。特に口元──開くと本物の牙が生えている、私の口元を。彼はゴクリと唾を吞んだ。
「いやいやいや!」と彼は笑いながら言った。「怖いって! ミーナってば、冗談だよ……ね?」
彼は必死に笑顔を作っていたが、目は笑っていなかった。その目に浮かんでいたのは、怯えだった。
ふっ、と、私は笑いをもらした。
「だよね!」
そう言って、私は笑った。ゲラゲラと、お腹を抱えて、ジョナサンが心配するほどに。
「あー、笑い過ぎて喉渇いちゃった」
「あ、じゃあ飲み物買ってくるよ」ジョナサンはどこかほっとしたような顔で言った。「何がいい?」
「じゃあ新鮮な血」
「またまた。コーヒーでいい?」
「……うん」
心なしか足早に歩いていく彼の後ろ姿を見送った後、私は彼から姿を隠すためにコウモリに変身し、真夜中の埠頭を後にした。
次の日、『私は吸血鬼なので人間とは付き合えません』とジョナサンにメッセージを送った。
彼の返事は、『分かった』のひと言だけだった。
私はちょっとだけ泣いた。彼のこと、結構好きだったのだ。
後日、『ハラワタ』にて、私は衝撃の事実を知る。
「人間の子? 結構いるよ。この前の『ジョナサン』?」そう言ってマスターはプッと笑った。「あの子も人間だったでしょ」
「知ってたの? うそー、分かんなかった……だって吸血鬼専門の店じゃん」
「吸血鬼もだいぶ少なくなっちゃったからねえ。経営が厳しいんだよ。だから自称吸血鬼なら入れてあげちゃってる」
「そっかあ……。目に見えることだけが真実じゃないんだね」
「うん、そうだね。何か使い方間違ってるような気がするけど」
ダイニングバー・ハラワタの夜は今日も更けていく……。
終わり