携帯電話のアラームをセットした午前一時に目を覚ますと、窓の外には見事な夜景が広がっていた。ベッド脇のホテルのデジタル時計はAM9:00を表示している。実感はないが、朝なのだ。
身支度をしてエレベーターで一階に降りると、それでもロビーにはチェックアウトする人たちやホテルの従業員が行き来し、朝らしい風景があった。フロントの順番を待つ間、暇つぶしに巨大水槽に近付いてみた。するとそれは、本物の水槽ではなく、水槽の映像を映した巨大な液晶画面だった。
「へえ、すごいな。こんな大きいの初めて見た……」
どこにも継ぎ目がないのだろうか。よく見ようとして顔を近付けると、まるで餌に群がるように僕の顔のまわりに小魚が集まってきた。画面に沿って手を動かすと、手の動きに合わせて魚たちがくるくると躍った。これはおもしろい。
ククッと笑う声がした。いつの間にか横に中年の男が立っていた。チェックアウトするところなのだろう。今起きたばかりという顔をしている。
「兄ちゃん変わってるなあ。そんなのがおもしろいのかい」
「ええ……すごくリアルですね」
「は、リアルか」
嘲笑するような男の言い方が気になった。見ると、男はどこか遠くを見るような目で画面を見つめている。
「今じゃみんな絶滅しちまったからなあ。確かめようもないが。リアルか。そう言われてみれば生きてるように見えなくもないな」
男は画面に手をかざした。カラフルな熱帯魚たちが寄ってきた。
「絶滅? そんなはずは……」
そんなはずはない。今男が見ている熱帯魚なんか、ペットショップでは何十種類も売っているし、病院のロビーやちょっとお洒落な友達の家には大抵いる。アジやサバは魚屋に並んでいるし、サメやエイやイソギンチャクだって、水族館へ行けば見られる。男はもしやまだ寝ぼけているのか? 男の様子を窺うと、彼はぼーっとした表情で魚たちと遊んでいる。
「あんた! 行くわよ! 何してるの、全くもう」
エントランスのところから、スーツケースやら紙袋やら大量の荷物を抱えた女が叫んでいた。頭の上に高く盛り上げた髪に、顔には大きなサングラス。着ているものは黒いドレスで、首に耳に手首に、派手な宝石を着けている。男とは正反対の雰囲気の女だ。
「今行くよー」男がだるそうに返事をし、肩をすくめて僕におどけた顔をしてみせた。「うちの女房はあれにそっくりさ」
男は歯を剥き出しにしているサメを指差し、ぼやきながら歩いていった。
チェックアウトを済ませ、朝食を取るために近くのカフェに入った。カウンターでは常連客とおぼしき老人が店主とおぼしき男と話し込んでいた。通りに面した窓に沿って四人掛けのテーブル席が三つ並び、あとはカウンター席だけという小さな店だった。アンティーク調の家具で統一されたシックな内装で、使い込まれた風合いの焦げ茶色のフローリングは歩くと靴音がよく響いた。僕は奥のテーブル席に座った。メニューを見ると、やはりわけの分からない言葉が並んでいる。読める文字なのに、意味が分からない。不思議な感覚だ。まるで別世界に紛れ込んでしまったような……と僕は思って、ああ、別世界なんだ、ここは、とひとり納得した。コツンコツンと床を打つ靴音がし、僕の横で止まった。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
水とおしぼりを持ってきたのは若くて愛想の悪いウェイトレスだった。
「おすすめを」
と僕は注文した。
「朝ごはん?」
「うん」
ウェイトレスはサラサラっと伝票を書き、
「かしこまりました」
と短く言ってカウンターの奥に消えた。
店主と老人はまだ話し続けている。僕のテーブルには薔薇の花が飾られていた。ところどころ透けて見えるそれは薔薇の花の立体映像だった。花瓶だけ実在している。花瓶の形のプロジェクターなのだろう。まさかここでは花も絶滅してしまったのだろうか。
表の通りは足早に歩く人たちで埋め尽くされている。混雑しているのに、誰ひとりぶつかることがないようで、まるで工場の製品みたいにスムーズに流れていく。みんなロボットなんじゃないだろうか、とふと思った。こちらの世界なら、ありえないことではない。僕は道行く人がロボットなのか人間なのか見極めようと窓の外に目を凝らした。
運ばれてきたおすすめの朝食は、トーストとサラダとスクランブルエッグ、それに僕らがいつも『コーヒー』と呼んでいる飲み物──つまり本物のコーヒー──だった。伝票を置いて去ろうとするウェイトレスを僕は呼び止めた。思い切り訝し気な顔で振り返った彼女に、
「ねえ、ここは魚料理はある?」
と訊いてみた。
「魚料理?」ウェイトレスは鼻で笑った。「やめてよお兄さん、そんな古いジョーク」
不愛想に言い捨て、彼女はカウンターに戻ってしまった。
ジョークか。魚が絶滅してしまったというのはどうやら本当のことらしい。乱獲か、環境汚染か……。いつか僕たちが暮らしている世界からも魚たちが消えてしまう日が来るのだろうか。
立体映像の薔薇はいつの間にか枯れていた。花火が消える時のように枯れた薔薇の映像が光の雫になって落ちると、新たに緑の葉が伸びてきて菖蒲が咲いた。
直線的なビルが立ち並ぶ通り沿いの車道では、絶え間なく車が行き交い、誰もが風を切るようなスピードで走っている。昨日モカに聞いた話によると、ここではひとりが一台(あるいはそれ以上)車を持っているのが普通で、しかもどんなにスピードを出しても事故が起こることはないのだという。ドライバーが優秀なのではなく、車の制御機能が優秀なのだそうだ。車道の向こうには大きな川が流れ、その向こうには、黒い山々が連なっている。
澄んだ水色の電飾を纏った並木の下を歩き──全部枯れ木なのはどうしてなんだろう──菓子屋や家具屋や本屋をのぞき、やがてショーウィンドウに緑色の宝石──『エメラルド』だろうか? いや、まさか──を飾った店があったので入ってみた。