短編・連作短編小説

鮮血ジュースはヘルシーですか~吸血鬼さちこの何でもない日常~

 昨日テレビで言っていた。健康の秘訣は早寝早起きである、と。

 毎週欠かさず観ているバラエティー番組だった。その番組では、毎週あらゆる分野の専門家をゲストに招き、役に立ったり立たなかったり、ありがたかったりありがたくなかったりする知識を、出演者のお笑い芸人やタレントが、へえ、とか、ほお、とか、えーっ、とか言ったりしながら賜るのである。
 昨日のゲストは白衣を纏って眼鏡を掛けた白髪の医者だった。何とかの権威とか言っていたが、聞いてもピンとこなかった。ともあれ、その何とかの権威の医者が言ったのである。
「健康になるためには、早寝早起きをすることです」
 どアップに寄ったカメラに向かって鋭い眼光を放ち、きっぱりと言い放ったのである。私は何となくこの医者が気に入ってしまった。何故ならこの番組が放送されていたのは午前一時から二時の間。思い切り深夜なのである。せっかくゲストに招いてくださったその番組を、もう観るなと言っているようなものではないか。
 医者はその後たっぷり五十分間、早寝早起きによってもたらされる恩恵について語り、出演者たちはやはり、へえ、とか、ほお、とか、えーっ、とか言いながら聞いていた。みんなどこかで聞いたことのある話ばかりだったが。
 まあ、それはさておき。
 健康はやはり気になるものだ。私は現在、毎日夕方に起床して朝に就寝するという、医者の勧める健康法とは真逆の生活を送っている。午後六時に目覚め、しばらく寝床でぼーっとして、六時半に顔を洗い七時に食事。完全に日が落ちてから買い物──コンビニか二十四時間営業のスーパー──へ行ったり、行きつけのダイニングバーへ行ったりし、帰宅後はテレビを観たりインターネットをサーフィンする。それから入浴、歯磨き、そして朝日が昇る前に床に就く。
 しかし弁明しておこう。それは私が不規則な生活をしているとか、ニートで自堕落な生き方をしているとかでは決してない。それは単純に、私が吸血鬼という種類の生き物で、太陽光に当たれば死んでしまうという難儀な体質のために、日が出ている時間を避けて生活せざるを得ないからなのである。
 がしかし、やはり吸血鬼といえども、健康のためには、お医者様の仰るとおり早寝早起きの生活をしてみるべきなのではと私は考えたのである。

 ところで、吸血鬼はほぼ不死身である。放っておくと何百年でも平気で生きる。吸血鬼に健康は必要だろうか。

 おそらく必要だろう。一応生き物である以上、健康であるに越したことはない。ほぼ不死身ではあるが、完全に不死身なわけではないのだ。太陽光や木の杭や、銀の弾丸なんかにはめっぽう弱い。もしも健康であれば、それらがちょっとだけ平気になったりするかもしれない。太陽に当たっても、死なずに、ちょっと焦げるくらいで済むかもしれない(太陽光を浴びながら歩くのはちょっとした憧れだ)。それに何百年も生きていれば、単純に老いの症状が出てくる。今年百二十八歳になる私は吸血鬼社会においてはまだピチピチの若者だが、人間ならば棺桶に片足を突っ込んでいるどころか全身すっぽり入って土の下で寝ている年齢なのだ。
 そういえば最近腰のあたりが痛い気がする。腕も何だか上がりにくい気がする。少しの段差でつまずいたり、飲み物が気管に入ってむせたり……。
 これって老化?

 そんなある夜私は食事に出掛けた。食事とは、つまり狩りである(吸血鬼なので)。人間を狩るのだ。
 吸血鬼らしく夜闇に紛れる黒いドレス……では目立つので、動きやすいジャージの上下に、首に掛けるタイプのLEDライトを装着したりなんかして、夜間ランニングを装って街に出る。軽く走りながら、これも健康に良さそうだなどと考えた。五分ほど走ったところで、早速獲物を発見した。見たところ二十歳そこらの男女四人組だ。吸血鬼への警戒心もなくきゃあきゃあ騒ぎながら歩いている。酒も入っているのか、足元も覚束ないようである。恰好の獲物だ。私は狩りの姿勢に入った。
 ランニング風の小走りで四人組に接近する。巻き毛のカールが取れかけている女が私に気付いた。ぽっちゃりとしていかにも美味そうだ。
「えっ、何?」
 と女は不審げな声を上げる。私は心の中でほくそ笑んだ。怯えるがいい。恐怖は最高の調味料だ。
「何だよテメエ。きめえよ。消えろ!」
 言葉だけは威勢が良いが、そう言った青年は酔眼朦朧、足も一番フラフラしている。血の気が多く、後先考えず衝動的に行動するタイプだ。そういう人間の血は野性味があってなかなか美味い。こいつから喰ってやろうと私は思った。しかしジャージの袖から鋭い爪を出し、口を開けて牙を露わにした途端、
「おい、こいつやべえぞ! 逃げろ!」
 と、もうひとりの青年が叫んだ。若い獲物は一目散に逃げていく。
「待て!」
 私はジャージとお揃いのスポーツブランドのスニーカーを履いた足で獲物の後を追って走った。アスファルトを打つハイヒールの音が闇の中に響く。その音がだんだん遠ざかる。おのれ、吸血鬼ともあろう私が人間ごときに……しかもあいつらハイヒール? それに女のひとりはぽっちゃりしてたのに、何であんなに走れるの?
「待て! 待て……ちょっと……待ってー……」
 必死に走るも、足音は遠ざかり、やがて完全に消えた。
 寂しく灯る街灯の下で、とうとう私は息が切れた。
 ゼエ、ゼエ……ゲホッ。ああ、動悸がする。もう歳かしら。

 健康に、なりたい。

 早寝早起き、実践してみた。
 まずは早寝だ。夜十時に就寝することから始める。夕方起きたばかりなので全然眠くないが、それでも棺桶に入って蓋を閉じ、無理矢理に目を瞑る。枕元に置いたスマートフォンは朝の六時半にセットしてある。太陽と共に目を覚ますことを考えると、吸血鬼なのにワクワクした。何であれ新しいことを始める時は気分が高揚するものだ。

 アラームの音で目を覚ました。いつもの調子で棺の蓋を開けると、部屋の中が薄明るい。遮光カーテンの隙間からギラギラした光が入っているのを見て私はギャッと悲鳴を上げた。何、何? 何でこんなに明るいの? 世紀末来ちゃった? 急いで閉じた蓋の下でブルブル震えていると、スヌーズ機能でまたアラームが鳴って私は再びギャッと悲鳴を上げた。そこでようやくディスプレイに表示された時刻を目にし、ああ、と急速に落ち着きを取り戻した。そうだった。早寝早起きを始めたんだった。何のことはない、朝なのだ。

 朝の光は新鮮だった。本来避けるべきものなのでこれまであまりマジマジとみたことがなかった。直接浴びると死ぬので、黒いカーテンの陰から、強烈に明るい光の筋を見ていると、目がチカチカし、吐き気がしてきた。
 テレビで医者は言っていた。朝の光は清々しくて気持ちが良いと。それって本当? 今まで夜型の生活をしていたからだろうか。朝の光は私には全然清々しくないし、むしろ気分が悪くなってくる。でも、しばらくしたら慣れてくるかもしれない。健康のためだ。もう少し頑張ろう。

「早寝早起きが健康に良いっていうけど、でも健康に良いことってそれだけじゃないと思うの。だって、早寝早起きでなきゃ健康になれないんだったら、それができない人はみんな不健康になっちゃうわけでしょう? 例えば夜勤で働いてる人とか、時間が不規則な業界の人とかさ。テレビ関係の人って生活時間めちゃくちゃ不規則だっていうじゃない。でもテレビに出てる人、不健康には見えないし、むしろ元気そうよね。それに、吸血鬼とかもさ、基本夜型でしょ。だから、調べてみたの。健康の秘訣。いろいろあったよ。えーとね、まずニンニク。食べると良いんだって。アミで焼いて食べるとね、ホクホクして美味しいらしいよ。ニンニク卵黄とか、テレビでよくCMしてるしね。それに、菜食主義。野菜しか食べないんだって。ビタミンやミネラルがいっぱい摂れて、コレステロールは抑えられるから良いんだって。でも私たちの食事って基本、人の生き血だし、野菜だけなんて物足りないよね。トマトジュースとか飲むけどさ、やっぱり違うもん。なんか薄くて、イライラしちゃう。それに酸っぱいし。あと水泳とか、新しいところにアクティブにどんどん出掛けていくとか、精神面から攻めるなら、おしゃれして気分を上げるとか……でも私たち、水はダメだし、招かれていないところには入れないし、それに鏡にも映らないじゃない……ねえ、健康って、吸血鬼イジメ?」
「真面目過ぎるんだよ、おまえは」
 電話の向こうで彼氏は言った。午前十時なので彼は眠たそうだ。早寝早起きを始めて一ヵ月、私は今でも何とか早寝早起きを続けていた。しかし、何故だろう。前よりも不健康になっている気がする。真昼間から人間を狩ることはできないので人血が飲めずに栄養不足だし、外出するにも日光に当たらないように厳重な装備が必要で、次第に億劫になり今ではすっかり引きこもりだ。そんなわけで買い物にも行くことができないので、インターネットで取り寄せられるトマトジュースを飲んで何とか生命を繋いでいる。
「朝型生活なんかやめてさあ、前みたいに楽しくやろうぜ。血、飲みたいだろ? 恐怖に縮み上がった人間どもを仕留めてさあ、新鮮な血を頂こうぜ」
「ねえ……」
「何?」
「新鮮な血って、健康に良いのかしら」
「そんなこと考えんなよー。深く考えるのやめようぜー」
 彼氏はちょっとチャラめだ。今年で百八十歳で、私より年上。行きつけのダイニングバー『ハラワタ』で出会って付き合い始め、そろそろ半年になる。そういえば朝型の生活になってからというもの彼とは生活時間がすれ違いになり、しばらく会えていない。そう思うと彼が恋しくなった。しかし朝型の生活リズムに身体が慣れてきたことろなので、ここで夜型に戻ってしまうのも惜しい気がした。もう少し続ければ健康になれるかもしれない。何でもそうではないか。初めのうちは失敗続きでも、続けるうちにコツをつかんでうまくいくようになるものだ。スポーツ然り、料理然り、朝型生活然りだ。そこで私は彼に提案してみた。
「ねえ、一度お昼に街に出てみない? 狩りはできないけれど、明るいうちの街も珍しくてたまには良いでしょ。出てみたら楽しいかもしれないわ」
「ええー? 危なくね? 太陽光ガンガンだろ? 死ぬぜ?」
「ちゃんと日除け対策すれば大丈夫よ。何度か出たことあるもの。ね、いいでしょ。搾りたてトマトジュースごちそうするから」
「でもなあ」
「会いたいの。お願い」
「しょうがねえなあ」

 翌日のお昼、私たちはばっちり日除けの装備をして街へ出た。七月なので少し暑かったが、彼は黒のスーツに黒いシャツ、私は立襟の黒い長袖ブラウスに足首まで隠れる黒いロングスカート。二人でお揃いの黒い手袋を着けて、大きな日傘を差した。彼のはシンプルなコウモリ傘だが、私のはふんわりと丸い形にフリルの縁飾りが付いたもので可愛らしく、お気に入りだ。仕上げに私たちはサングラスを掛けた。彼はサングラスが良く似合う。細面で目鼻立ちがくっきりとしているので、サングラスを掛けるとまるでお忍びのハリウッドスターのように見える。太陽光が燦々と降り注ぐ街中を歩くとやけに視線を感じるのはそのせいだろう。前から来る人や、すれ違った後でまた振り返る人、更には車道を挟んだ向こう側の歩道からも驚いたように目を見開いて見つめる人々の顔を見るたび、私は「キアヌ・リーヴスじゃないですよー」と、心の中でクスクスと笑った。
「やっぱさあ、日傘は目立つぜ。おまえは女だからまだマシだけどよ、男が日傘って、何かなあ」
 彼はブツブツ言いながら日傘を見上げる。上に気を取られているうちに彼は車道にはみ出した。そこへ車が走ってくる。車道なのだから当たり前だ。しかし百八十歳の彼はいまだに人力車が走っていた頃の習慣が抜けないのか、歩道も車道も関係なしにマイペースに歩こうとする。夜ならば交通量も少なくなるのでさほど問題ではないが、昼間はそうはいかない。大変危険である。日光を浴びて銀の弾丸の如く輝く車体はもうそこまで迫ってきていた。
「あぶなーいっ!」
 彼を車から守るため、私は力一杯に彼の身体を突き飛ばした。彼の顔からサングラスが外れ、真ん丸に見開かれた彼の目が、驚愕と恐怖の色を湛えているのを私は見た。その瞬間、私は気が付いた。
 あ……私たち、車にぶつかっても別に平気なんだった。
 彼のコウモリ傘とサングラスが青い空に舞い、日の光を浴びてキラリと光った。
「ああぁぁぁぁ……」
 恐ろしい悲鳴が響き渡った。アスファルトの上で彼は一瞬にして人の形をした灰になり、走ってきた車に轢かれて粉砕し、サラサラの粉状になった灰は次々と走ってくる車が巻き起こす風に乗って散り散りになり、あっという間に消え去った。
 彼が灰になった場所は、今はもう車が行き過ぎるだけで、彼の姿は影も形もない。一瞬立ち止まって道路を見ていた人たちも、何事もなかったかのようにそれぞれの道へと歩み去った。私はひとり歩道に跪き、日傘の下から呆然と道路を見つめていた。
「……あーあ、やっちゃった……」

 健康にこだわり過ぎるのも良くないってことだよね。失敗失敗……。

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