長編小説

彼女がドーナツを守る理由 32

 リビングのソファに座っていると、家中どこもかしこも静まり返って、家というのはこんなにも静かだっただろうかと不意に思った。休日に家にいるのは久しぶりのことだった。
 テレビ台が埃を被ってうっすらと白くなっている。けれど立ち上がって拭きにいく気になれなかった。テレビをつけ、幾つかのチャンネルを見てみる。クイズと食べ歩きグルメとドキュメンタリーをやっていた。少しもおもしろくないのですぐに消した。元々テレビはあまり見ない。
 台所で冷蔵庫のモーターが低く唸る。聞こえる音といえばそれだけだった。暇だった。暇には慣れていなかった。むしろいつも時間が足りないと思っていた。小説を書くことと読むことでいつも頭を一杯にしていた。今はどちらもする気になれない。小説がなければ、何もなかった。僕はただソファに座って、空っぽな気持ちで何も映さないテレビの黒い画面を見続けた。

 日も暮れたところで、僕は手持ち無沙汰に耐えかねて、上着を羽織って外に出た。『トーラス』にひとりで行くのは初めてだった。店に入った時、店主は僕を見て意外そうな顔をした。
「おひとりですか。珍しいですね」
「たまにはね」
 カウンター席に座った僕に店主は声を掛けてきたが、僕が曖昧に笑ってひとこと返しただけで会話は終了した。勘のいい店主は僕があまり会話をする気分ではないのを察してか、それ以降は放っておいてくれた(ただ感じの悪い奴だと思っただけかもしれないが)。ウイスキーのロックと夕食代わりのつまみを注文してちびちびやっていると、男女数人のグループが来店してきて真後ろのテーブルで賑やかに騒ぎ始めた。学生らしい陽気な一団は周囲のことなど気に掛けない。大声でしゃべり、笑い、グラスを打ち鳴らし、奇声を上げる。ライオンの口から出るお湯のように、絶え間なく溢れ出る話題、話題……。
 陽気だな、と僕は思った。全く、馬鹿みたいに陽気だ。心の中に悪感情が湧き上がってくる。どうしてこいつらは……いや、この『内側の』世界は、こんなに陽気なんだ。僕は自分が生まれ育った世界全体にはびこる陽気な雰囲気や、往々にして明る過ぎる人々を心底嫌悪した。どいつもこいつも、陽気すぎるんだよ、クソッタレ!
 モカの住む世界を懐かしく思った。あのしっとりとした落ち着きを、心地良い仄暗さを、静けさを、そして美しい星々の輝きを。外側の世界のほうが『別世界』であるはずなのに、僕はまるで故郷を想うように外側の世界を懐かしんだ。もう帰ることのできない故郷。何もかもが懐かしかった。カフェの愛想の悪いウェイトレスすら懐かしかった。
 きっと僕は生まれてくる側を間違えたのだ。初めから向こうに生まれていれば、こんな風に世の中に対して違和感を覚えることもなく自然に生きられたのかもしれない。モカとも離ればなれにならずにすんだのかもしれない。

 まるで全自動のロボットのように僕はそれ以降の日々を過ごした。朝になれば仕事に行き、定時まできっちりと働き、マークに飲みに誘われれば彼が驚くほどそれに付き合った。飲みにいけば楽しくて笑った。けれど何も考えていなかったように思う。何も考えないというのは楽だった。休日は書庫に籠ってずっと本を読んで過ごした。
 この頃僕の脳味噌は通常の半分しか働いていなかった。
 もう半分にはずっとモカがいた。

 ふとした時に、彼女の髪の香りの幻が鼻先を掠める。
 あたしのこと忘れて。
 また彼女の声が蘇る。

 三週間ほど経った時、僕は突然思い立って、書庫の埃の積もった床からガバリと立ち上がった。読んでいた本をその場に放り出し、僕は出発した。トンネルを降りる僕のジャンパーのポケットには、以前買ったレッドフレイムが入っていた。

 あたしのこと忘れて、だって? 冗談じゃない。

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