長編小説

彼女がドーナツを守る理由 33

 外側の世界に立つと、強く吹く風の音が耳を打った。僕はその「ビュウウ」という暴力的な音にしばし耳を傾けた。このように強く吹く自然な風というものは、僕には馴染みのないものだ。初めて聞いた時には何の音かも分からなかった。それが風の音だということも、風というものは自然に吹くものだということも、モカに教えてもらった。
 トンネルの出口のある廃工場の敷地を出て人気のない道を歩いた。今が何時なのか分からなかった。財布は持ってきていたが、腕時計と携帯電話は忘れた。家を出たのは何時だっただろうと考えたが、それも分からなかった。書庫にいつ入ったのか記憶がなく、どのくらい籠っていたのかも見当がつかない。今になって、考えもなく衝動的に飛び出してきたのものだと我ながら呆れた。しばらく歩いて街に明かりが灯っているのを見つけ、とりあえず夜中ではないことが分かってホッとした。車が猛スピードで走る通りの脇に立って手を挙げると、十秒もしないうちにタクシーが停まった。運転手に行き先を告げ、僕はシートに凭れた。
 モカのいる街。この街にモカがいる。それだけで、心が生き返るようだった。モカの気配をすぐ側に感じる気がした。

 真鍮のノッカーを鳴らすと、すぐにドアが開いた。背の高い男が立っていた。彼は僕を見ると、
「お、モカの」
 と言った。
「ヨウです。突然すみません」
 僕は言って頭を下げた。
「何か用?」
 素っ気なく彼は言ったが冷たくは響かなかった。彼が言うと何故か感じ良く聞こえた。
「実はお願いがあるんです。これを……」
 僕がポケットから石を出しかけると、
「いいよ。今日ヒマだから」
 と彼は内容も聞かずに承諾した。
 モカのいとこに僕は持ってきたレッドフレイムを渡し、それを二つに割ってそれぞれ加工してもらえるよう頼んだ。今日工房にいるのはモカのいとこだけのようだった。
「他の人は?」
「ああ、しゅっちょー」気の抜けるような感じで彼は言い、作業台の前に座るとレッドフレイムをしげしげと眺めた。「いい色だな」
「上等なやつですか」
「うーん、上等かどうかって言ったら、まあそこそこだな。石の質っていうのはインクルージョンの有無や透明度なんかで決まるが、色ってのは基準はあれど好みがあるからな。値段付けたいわけじゃないなら、好きな色選べばいいんだよ。俺この色好き」
 そう言って彼は笑った。人柄の良さが滲み出るような可愛い笑顔だ。僕はうっかりときめいてしまいそうになった。モカが彼を好くのもよく分かる。
 加工をする間僕は隣に座って見学することを許可された。途中、表面の仕上げをつるっとさせるかキラッとさせるか訊かれて迷い、モカのペンダントがつるっとしていたことを思い出してこれもつるっとさせてもらった。やがて出来上がり、代金を支払おうとすると、
「いいよ。モカへのプレゼントだろ」
 と言って彼は受け取らなかった。僕はお礼を言って工房を後にし、またタクシーでトンネルのある廃工場の近くまで戻った。約束した通り、モカには会いに行かなかった。彼女の占いを信じたわけではない。それを信じている彼女を苦しめたくなかったからだ。
 トンネルを降りようとしてすぐに、壁に打ち付けられている金具に何かが引っ掛かっているのに気が付いた。
「何だこれ……」
 それが何か分かった時、僕は息が止まりそうなほど驚いた。
──その石は特別。あたしのお守りなの。
 モカのペンダントだった。モカの大切な……。どうしてこんなところに? 来た時はあっただろうか。いや、なかったはずだ。
 モカは知っていたのだ。今日僕がここに来たことを。
 泣きたくなった。ペンダントを金具から丁寧に外し、首に掛けた。
 ヨウ。
 モカの声が聞こえた気がした。
 また来週ね。
 そう言って笑顔で手を振ってくれる彼女が今ここにいたなら、どんなにいいだろう。僕はペンダントを服の下に大切に入れて、トンネルを降りた。

 レッドフレイムは二つの小さなハート型になった。モカのいとこの丁寧な仕事のおかげで、それはとても美しく仕上がっていた。光が当たると、まるで本物の炎が閉じ込められているかのような魅惑的な輝きを見せた。
 僕はこれを使ってピアスを作るつもりだった。もちろんモカのために。彼女に届く保証はなかった。僕の考えている方法では、可能性は低いだろう。こんな方法を取らなくても、確実に届ける手段ならあった。向こうの宅配便に頼めばいいのだ。けれど僕はそうするつもりはなかった。賭けでもあったのだ。もしこれが彼女に届いたなら、僕らはまた会えるのだと、淡い希望を込めた賭けだった。
 届いてほしかった。届くかもしれないと思った。彼女になら。
 工房に注文を出す形にして自分で金の台座を付け、スポンジに挿して小さい透明な袋に入れた。それを緩衝材で包み、プラスチックのカプセルに入れた。僕はそれを庭のトンネルの中に落とした。真ん中の地点で重力の向きが変わるので、地面に当たって砕けるということはないはずだった。手を離すと、カプセルはあっという間に見えなくなった。

 ピアスの台座にはメッセージを彫り込んだ。

 僕は君を忘れない。

 忘れられるわけがないんだ。

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