長編小説

彼女がドーナツを守る理由 34

─────第二章────

 定期購読している文芸誌に応募していた僕の作品が二次選考まで残っていた。五十編ある候補作の中のひとつに過ぎなかったが、それでもここまで残ったのは初めてのことで、僕は飛び上がるほど(いや実際飛び上がった)嬉しかった。思わずイツキ叔父に電話をすると、お祝いをしてくれることになった。

 僕は相変わらずの生活を続けていた。仕事でアクセサリーを作り、たまにマークと飲み、家では本を読むか小説を書くかの生活だ。ただ、以前よりも机に向かっている時間が長くなった。
 モカと別れてから二年が経っていた。
 来月の十一月で僕は二十四歳になる。十二月生まれのモカは再来月で二十七歳だ。
 モカ、君は今、どうしている?
 もう結婚はしたのだろうか。していてもおかしくはない。あんなに美人なんだ。まわりが放っておかない。良い男性と巡り逢っただろうか。幸せに暮らしているだろうか。モカが今幸せになっているだろうかと考えると(つまり他の男と、という意味だ)、いつも複雑な気持ちになった。幸せであってほしいと願うものの、モカが他の男にあの笑顔を向けていることを想像すると胸が張り裂けそうだった(僕はというと、モカのことを一ミリも忘れていなかった。他の女性と恋愛なんて考えることもできない。モカ以外の女なんてどれも皆んな同じだ)。偏屈と孤独癖を極めつつある僕は、モカの幸せをいつまで経っても祝福できそうにない。しかし地面の裏側にいるモカの近況については、良い報せであれ悪い報せであれ僕のところには届かない。それは幸いなことなのかもしれなかった。
 パソコンの横にはモカのペンダントが透明なケースに入って置かれている。その隣で黒いラバーベルトの腕時計はモカの世界の時間を刻み続けていた。
 初めて会った時、彼女は僕を殺そうとしていたことを時々思い出して僕は笑った。あんなに衝撃的な出会いはそうそうあるものではない。

 イツキ叔父は僕を家に招んで盛大にお祝いしてくれた。まるで大賞を取ったかのようだ。
「まだ二次に残っただけだよ」
 つい、そんなに嬉しくなんかないという振りをしてしまう。本当は椅子の上に立って踊りたいくらいだったのだが、しかし僕はそんなキャラではない。
「いいや! 二次でも大したもんだ! 俺は、おまえはやる子だと思ってたよ。おまえは祖父さんに似ているところがある。今に大作家になるぞ! おい、アリス! 今のうちに握手しとけ、握手!」
 イツキ叔父は酒に弱い。好きなくせに弱いのだ。飲み始めるとたちまち酔っ払いになってしまう。まるでコントだ。アリスはそんな親父を笑って受け流しながらジュースを飲んでいる。七歳になったアリスは少し大人びてしまって、もう僕にまとわりついてこない。反対に弟のハルは前よりもさらにやんちゃになった。
「どんなお話を書いたの?」
 と叔母が言う。僕は特殊能力を持った少年が探偵役を務める推理小説の内容を要約して話した。叔母は僕の話をうんうんと頷きながら聞いて、
「最後まで残るといいわね。叔母さん、ヨウちゃんのお話好きよ」
 と言ってくれた。

『モカ』と名前を付けた女性が出てくる小説を、僕はまだ書き続けていた。書いている途中で別の作品を書いたりしていたので、それは大して進んでおらず、まだ大筋と最初の数十ページがあるだけだった。しかしそれは別に気にすることではなかった。僕はこの小説をどこに応募する予定もなかったのだ。僕は自分のために『モカ』の物語を書いていた。『モカ』は今や、実際のモカそのものといってもよかった。モカを思い浮かべながら僕は書き続けた。彼女の思い出を、僕はいくらでも引き出すことができた。呼べばいつでも、彼女は鮮やかな姿と声で蘇った。再生するほどに劣化するフィルムとは違い、思い出は映せば映すほど鮮やかになるらしかった。

 物語の中でモカは『始末屋』をやっている。つまり『殺し屋』だ。両手で二丁のレーザー銃を扱う腕は天才的で、入社二年目ながら猛者揃いの先輩たちにも引けを取らないくらいの仕事をこなしている。『モカ』の住む星は荒れて殺伐としていた。隙間もないほどビルが立ち並んでいるが、そのほとんどが崩れ、砂埃にまみれている。しかしそれはここ数年の間のことで、もともとは高度な科学技術を誇る大都市だった。
 この星がまだこのような有様になる前、この星の科学技術者や研究者たちはさらなる科学の発展を求めて宇宙開発に力を注いでいた。周辺のあちこちの星に探査機を飛ばし、それらの研究を試みた。それが災いを招いたのだった。探査機を飛ばした数十の星のうちのひとつに知的生命体が存在していたが、その星は今にも滅びようとしていた。その星の生命体は、やってきた探査機の軌道を辿り、逆に侵略しようとやってきたのだった。

 今書いているのはここまでだった。僕にとって『モカ』の物語を書くことは、モカに会いに行くことに似ていた。僕は物語の中の『モカ』に、もう会うこともできない僕のモカを重ね合わせていた。『モカ』がしゃべるとモカの声が聞こえた。『モカ』が笑うとモカの笑い声が聞こえた。『モカ』が髪をかき上げればモカのシャンプーの香りがした。しばしば僕は、文字に重なって現れる記憶の中のモカに見惚れた。
「モカ」
 と呼ぶと、彼女は振り返る。けれど、どんな表情をしているのか分からない。笑っているのか、泣いているのか、それともいつもの澄ました顔なのか。顔をよく見たいと思って近付こうとする。しかし見るのが怖い気持ちが起こり、僕はためらう。モカはこちらを向いている。僕を待っている。その姿がだんだん暗くなっていく……。
 目を覚ますとパソコンはスクリーンセーバーが働いて真っ暗になっている。そんなことが何度もあった。

「おまえ、いい加減彼女でもつくれ」
 とマークはしょっちゅう僕に言ってくる。
「家に籠もって文字ばかり見てたんじゃ健康に悪いだろうが」
 分かっている。マークは本気で心配してくれているのだ(若干気味が悪いとも思っているかもしれない)。しかしそんなマークを僕は笑ってはぐらかした。彼女をつくれ、とは以前からマークに言われていたことだが、最近はやたらしつこく、顔を合わせるたびに言うようになった。何か僕がヤバそうな雰囲気でも醸しているのだろうか。心配はありがたいが、少し鬱陶しくもあった。
「実は女性を愛せないんだ」
 とでも言えば、マークはきっと何も言わなくなるのだろうが、そうしたら今度は別方向で気を遣われそうな気がする。それはそれで御免こうむりたい。

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