長編小説

彼女がドーナツを守る理由 40

その日もモカはシンと共に街を巡回していた。シンはいくらかリラックスしているようだった。というのも、このところめっきり『F』を見なくなり、一週間に一体見つけるか見つけないかという状態が続いていたのだ。モカたちだけでなく、他の区域を担当している者たちも同じことを口にしていた。
『F』は急激にその数を減らしたのだ。異様ともいえる状況に大抵の者が不安を感じる中、シンは単純にそれを吉兆とみる少数派のうちのひとりだった。
「きっと狩り尽くしたんだよ」
 シンは魅力的な明るい笑顔で言った。
「そうでしょうか、シン。こんな時だからこそ、用心したほうが……」
 モカは不安だった。寒気がするほどに。
『F』は知的生命体だ。これまでのような単純な戦い方をやめて、別の戦法に移ったと考えることもできる。いや、これまでの真っ向勝負すら、作戦の一部だったのではないだろうか。突然一斉に姿を消して、この星の住人が混乱し、やがて安堵したその隙をついて一気に仕掛けてくるつもりではないだろうか。今頃どこかに集まって、その機会をうかがっているのではないだろうか……恐ろしい想像はどこまでも広がって、モカの頭を悩ませた。悪いことに、モカの『予感』はよく当たった。そのこともまた、不安を大きくさせている原因だった。
「大丈夫だよ。もう少しだ。もう少しで奴らからこの星を取り戻すことができるんだ。だいぶ痛めつけられたけど、この星は強い。また元通りになるよ」
 シンの笑顔には一片の曇りもなかった。モカも思わず肩の力が抜けた。きっとそうなのだと、信じたいと思った。

 日曜日の午後、僕はパソコンに向かって『モカ』の物語の続きを書いていた。すぐそこのベッドでは、リリィが足の爪にネイルを塗っている。リリィに対して後ろめたい気持ちがないでもなかったが、物語は物語として最後まで書いて完成させたかった。ただならぬ愛着を持ってしまっている僕の『モカ』が、この先どんな運命を辿るのか見届けたかった。あらかたの筋はあるものの、最終的にどうなるかは辿り着いてみるまで分からないのだ。とはいえ、このすぐ後の場面では彼女に辛い思いをさせてしまうことが決まっている。『モカ』にすまない気持ちになりながら、僕はキーを叩いた。

「この星がまた平和になったら」とシンは言った。「今度はもっと美しい星になるといいな。こんな無機質なビルばかりの冷たい風景じゃなくて」
 二人は廃工場に来ていた。かつてこの会社は人型ロボットを製造し、星一番のシェアを誇る大企業だった。モカの友人もかつてこの会社の開発部門に勤めており、いつも忙しそうにしていたものだが、今は崩れかけた四角い建物が連なりロボットの部品である手足や顔や胴体が散乱する星一番不気味な場所になっていた。
「ビルばかりじゃない風景って、どんなのですか? ビルじゃなかったら、一体何があるんですか?」
 生まれた時からビル街しか見たことがなかったモカには、その他の風景など想像できなかった。『F』がいなくなれば、また元通りに同じようなビルが建て直されるのだろうと思っていた。それ以外に何があるというのだろう?
「前に絵で見たことがあるんだ。例えば、普通、花は工場で作られるだろう? 苗が植えられたプレートが何段にも重なって、そこにライトが当てられる。ところがその絵では、地面に花が植えられてるんだ。そしてそれがどこまでも広がってるんだよ。小さな小屋があって、花畑の中には花を摘んでる人がいて……とても穏やかで、美しい風景だと思ったんだよ」
「うん、それは、きっと綺麗ですね……」
 モカは曖昧にうなずいた。シンの言う風景は確かに美しいだろうと思うが、何の意味があるのか分からなかったのだ。花は工場で作ったほうがずっと効率的だ。
「意味が分からないって思ってるだろ」
 シンに指摘され、
「そうですね」とモカは正直に言った。「そのやり方は効率的とはいえません」
「効率的じゃないか。確かにな」シンは笑った。「でも効率の問題じゃなくて……うわ、気持ち悪いな、これ」
 足元に左腕がもげたロボットが転がっていた。灰色の髪を扇状に広げ、整った顔の中の瞳が虚ろに天井を見上げている。二人は特に注意することもなくその横を通り過ぎた。ここは気持ちの悪い残骸ばかりだ。
「見てみないことには分からないだろうな。実際に見たら、モカもきっと感動すると思うよ」
 その時かすかな物音をモカは聞いた。振り返ると、壊れて転がっていたロボットが上半身を起こして座っていた。虚ろだった瞳が青い不気味な光を湛えている。ロボットは残っている右手を水平に上げ、人差し指を突き出した。その先に、シンの背中があった。
「シン!」
 ロボットの指が針のように伸び、シンの背中を刺し貫いた。一瞬の出来事だった。シンは振り返ることもできなかった。モカは銃を抜き、ロボットを撃った。それは形を崩し、どろりとした黒い液体になった。
「シン、シン! 聞こえますかっ」
 倒れたシンの身体をモカは夢中でかき抱いた。温かい血がドクドクと流れ出してくる。
「……あいつか……」
「ああ、シン、頑張ってください。今、助けを呼びます」
 モカが携帯電話を使おうとすると、
「駄目だ」とシンが制した。「電波を使えば奴らに場所が知られる。おまえも、助けにきた者も殺される……俺はここに置いていけ。おまえは早く逃げろ」
「シン! 嫌です! そんな……」
「モカ……ごめんな」
「え……」
「おまえの言った通り、もっと用心すべきだったんだ。俺はいつもいい加減で、おまえに迷惑ばかりかけたな。こんな相棒で、すまない……」
 シンは意識を失った。モカはシンを担いで立ち上がった。シンは助からない。それは分かっていた。しかしこんなところで悲しんでいる時間はなかった。迫り来る嫌な気配を、モカは肌で感じていた。
──死んでしまったとしても、奴らにはシンに指一本触れさせない……。
 モカは涙をこらえ、廃工場の出口を目指した。

『上書き保存』をクリックし、僕はパソコンをシャットダウンした。何気なく、いつも机の上に置いている黒い腕時計に目をやると、デジタルの表示が消えてしまっていた。
「あ」
 と思わず大きな声が出た。
「きゃっ」リリィが小さく悲鳴をあげた。「やだあ、びっくりした。どうしたの、ヨウくん」
「いや、時計の電池が切れちゃったんだよ」
 僕はのっぺりした灰色の文字盤を見てため息をついた。向こうとの時間差はだいたい八時間だが、正確な時間までは分からない。時計を合わせるために行ってみるわけにもいかないし……。
「まいったな」
「うん……」リリィは怪訝そうな顔をして言った。「でもその時計、前から狂ってたよね」
「……?」
 あれ? と思った。どうして僕はいまだに、向こうの時間を気にしているのだろう? 一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなるような、目眩のような感覚がした。リリィがやってきて、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「ヨウくん? 大丈夫?」
 ツンとするようなネイルの匂い。十本のうち八本までが赤く塗られた足の爪。
「ああ、大丈夫だよ。何でもないんだ」
 僕は腕時計を引き出しにしまった。モカの赤いペンダントの隣に。

 その年の年末、僕は二篇の小説を書き終えた。そのうちのひとつは文芸誌の新人賞に応募し、ひとつはクローゼットの引き出しにしまった。
『レッド・スター』と名付けたモカの物語は、僕の自己満足のための産物だった。僕の行き場のない感情を消化するためだけに書いたものだった。誰に見せるつもりもなかったし、自分で読み返すつもりもなかった。書いたらそれで終わり。僕のモカへの想いは、この物語の中に閉じ込められ、引き出しの中で眠りにつくのだ。
 レッド・スター──赤い星。それは僕の中でのモカのイメージだった。強く、激しく、夜空の中で、暗闇の中で、ひときわ眩しく輝く星。

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