長編小説

彼女がドーナツを守る理由 41

───第三章───

「レッド・スター?」
 とリリィが言った。
「え?」
 見ると、彼女は厚い紙の束を手にしていた。
「ああ」と僕は思い出して言った。「前に書いた小説だよ」
 それを書いてクローゼットにしまい込んでから、大分時間が経っていた。
「どうしてこんなところにしまってあるの?」
「ええと、失敗作なんだ。どこに出すつもりもないし」
 リリィにはそう言ってしまうのが簡単だった。モカのことや、その小説を書いてしまい込んでいる理由を説明する気はなかったし、聞かされても面白くないだろう。それに全部過去のことだ。
「ふうん。もったいないな」リリィはパラパラとページをめくった。「ね、これ読んでいい?」
「ああ、いいよ」
「やった。じゃあ後で読ませて」
 リリィは紙の束を元通り引き出しにしまい、代わりに淡いピンク色のストールを引っ張り出した。
「行ってきます」
 ストールをふわりと肩に羽織り、にっこり笑ってリリィは言った。
「行ってらっしゃい」
 友達とランチに行くというリリィを見送ると、僕はクローゼットを開け、紙束を取り出した。
 懐かしい、と思った。もう二、三年になるだろうか。同時に書き上げた長編はその後小さな賞を取り雑誌に掲載された。しかしそれが本になるわけでも小説の仕事が舞い込むわけでもなく、相変わらず僕はアクセサリー工房で働きながら文芸誌への投稿を続けていた。
 工房では任される仕事が増え、後輩の指導もするようになった。僕も歳をとったものだなと最近よく思う。同期で入社して以来ずっと一緒にやってきたマークは、独立して自分の店を開いた。アクセサリーの他にもマークがデザインした帽子や鞄、それに奥さんがセレクトした洋服や食器、照明器具などを置いている。マークは以前からアクセサリー以外のデザイン画も描いていた。
 先週、リリィと二人でマークの店を冷やかしに行った。表面がデコボコに加工されたガラスの嵌ったおしゃれな木の扉が入り口のその店は、落ち着いた雰囲気の洗練されたセレクトショップといった感じだった。全て形の違うたくさんの照明器具や、アクセサリーや小物が置かれているテーブルや棚も、売り物なのだという。店で僕らを出迎えたマークは以前のようなだらしない格好ではなく、デザイナー然としたおしゃれな男に変身していた。そんなマークを、リリィはひと目見て「うさんくさい」と笑い飛ばした。
「せっかくヨウとリリィちゃんが来てくれたんだ。今日は店閉めて飲むか」
 とマークは言い、本当にさっさと店を閉めてしまった。
 店の二階にある住居部分にお邪魔すると、マチルダさんとまだ幼児の娘がいた。娘の名前はローズだ。マークはおそろしく子煩悩だった。ローズの一挙手一投足に目を細め、僕とリリィに、子供は可愛いぞ、おまえらも早く結婚しろと言うのだった。結婚か、と僕は思った。きっといずれはリリィと結婚することになるのだろう。しかし一方で、きっとリリィは僕に愛想を尽かして出ていくのだろうという気もしていた。でもどちらも、それは『いずれ』の話だ。今じゃない。今のところは。ローズは僕が家の鍵のキーホルダーにしている蜥蜴──元携帯電話──を気に入って、なかなか離そうとしなかった。
「ヨウくん、リリィはヨウくんと一緒にいられるだけでいいからね」マークの家からの帰り道、リリィは言った。「結婚なんて、まだいいの。ヨウくんには頑張らなきゃいけないことがあるんだから。ヨウくんには才能があるの。リリィには分かるんだから」
「……ありがとう、リリィ」
 僕はリリィの手を握った。小さくて冷たい、よく知った感触の手。その手に僕が贈った指輪はもうない。去年、プールで泳いでいて失くしてしまったのだ。リリィは泣いて謝ってくれた。当然僕は許すと言った。当然じゃないか……。

 今ではもう使われていないDBA支所にモカはシンを運び込んだ。横たえられたソファで、自分は別の世界から来た人間なのだと、虫の息ながらシンはモカに告げた。モカはシンがうわ言を言っているのだろうと思ったが、彼の最期の言葉になるだろうと、その話を涙をこぼしながら聞いた。この星には地面の裏側にもうひとつの世界があり、その球状に閉じた世界が彼の生まれ故郷なのだという。彼は子供の頃忍び込んだ廃墟の庭にぽっかりと穴が開いているのを見つけ、面白半分に潜り込んでその先に見たことのない別の世界があるのを発見した。シンはそのことを誰にも言わずに秘密にし続け、大人になるともう一度その穴を通ってこちら側へ来た。そういう話だった。シンは、この危険な世界を捨てて向こう側に逃げろとモカに言った。そして穴のある場所をモカに教え、息をひきとった。
 シンの葬儀の後、モカは彼に教えられた場所へ向かった。そこは無人となった古い民家だった。リビングの真ん中に大きな穴が開いているのを見つけても、モカは大して驚かなかった。しかし意を決して穴を降り、その先に本当にシンが言っていた通りの世界があるのを見ると、さすがに驚いた。そこは今や殺伐とした外の世界とは比べ物にならない、平和で美しい世界だった。木々が生い茂り、色とりどりの花が咲き、空想上の生き物だと思っていた鳥や動物が人と戯れている。モカはその世界でシンと瓜二つの男を見かけ、思わず「シン……」と呼びかける。すると男は、「シンを知っているのですか」と言った。彼はシンの双子の弟だった。
 二つの世界を行き来するうち、モカはシンの双子の弟を愛するようになる。はじめはシンと外見が同じだからだと複雑な思いを抱えるが、次第に彼自身の魅力に惹かれてゆく。彼はモカの住む世界の事情を知り、内側の世界に移ってくるようにと説得する。しかし彼の世界の存在が知れて危険が及ぶことを心配したモカは、外側の世界に戻り、穴を埋めてしまう。モカは両手に銃を構え、再び闘いに向かう。愛する人とその世界を守るために。
 そこで物語は終わりだった。

 小説を読み終え、夕食の支度をしていると、リリィが帰ってきた。リリィは、
「あ、ごめんね。すぐに手伝うから」
 と言い、リビングのソファに鞄やストールを置きながら、無意識とも思える自然な流れでローテーブルに置いてある自分のノートパソコンの電源を入れた。リリィはこの頃ネットゲームにはまっているようだった。前からそういう傾向はあったのだが、最近はそれが楽しくて仕方がないらしく、夜中もろくに寝ずにパソコンに向かい、ゲームやチャットを楽しんでいるようだった。以前のように休日に二人で出掛けることもほとんどなくなった。小説を書くために時間が欲しい僕としては特に不満もないのだが、リリィがネットの世界に夢中になり過ぎているのは心配になるところではあった。

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