長編小説

彼女がドーナツを守る理由 17

 入ってすぐのカウンターの内側で、若い女の店員がビーズとテグスでレースのコースターのようなものを編んでいた。見たところ、高級宝石店というよりはカジュアルなアクセサリーショップのようだ。手作り風の指輪やネックレスがガラスのテーブルに並べられ、壁沿いの棚には色とりどりの石がガラスの瓶に入って並んでいる。小瓶にひとつずつ入ったものや、飴玉のように大瓶にじゃらじゃら入ったもの。何とも無造作に置かれているが、そのそのひとつひとつが僕らの世界ではどのくらいの価値になるかと考えたら、恐ろしくて血の気が引いた。
 地面の裏側にこんな世界があることを内側に住んでいる人たちが知ったら、この世は一体どうなってしまうだろう。きっと宝石を求めて人々が押し寄せ、大混乱に陥るだろう。
 だめだ、こんなものは見なかったことにしなければ。
 入口に引き返そうとした、その時、棚に並んだ小瓶の中の赤い石が目に留まった。
 吸い寄せられるように、僕はつい棚に歩み寄り、その小瓶を手に取った。
 中に入っていたのは、オーバル型にカットされたひと粒のレッドフレイムだった。手の中で揺らすと、それはゆらりと光を放った。まるで僕を誘惑するかのように……。燃える若い生命力のような、真っ赤な炎。
 モカが身に着けていたペンダントが脳裏をかすめた。
 彼女の『特別な石』と、同じ色、同じ輝き。
 手に入れたいと強く思った。そのレッドフレイムを、僕はしばらくの間眺めていた。しかし欲求を振り切り、棚に戻そうとした。すると今度は、マークの顔が頭に浮かんだ。
 そうだ、マーク……あんなにもレッドフレイムを欲しがっていた。
 ひと粒だけ、買って帰ってやってもいいのではないだろうか、と思った。レッドフレイムだとは言わなくていい。ただ綺麗な石が手に入ったと言えばいいのだ……。
 結局僕はそのレッドフレイムを買ってしまった。瓶から出され、小さな紙袋に収まった宝石を、僕はジーンズのポケットにこっそりとしまい込んだ。

 タクシーを拾い、僕は運転手に行き先を告げた。目的の場所は街はずれにあるらしく、走っているうちにだんだんとビルや車の数が減ってゆく。やがて民家と畑ばかりになったところでタクシーは停まった。タクシーを降りて、見ると、畑は全てオレンジ色のライトで照らされていた。農作物が列を作って綺麗に並んでいる。畑と畑の間の道を鹿が一匹歩いていた。タクシーが去ってしまった後は、人影もなく、物音もせずに閑散としていた。
 目的の店の名前は、『モカの占いのお店』だった。安直だが、分かりやすくて良い。何となくモカらしいとも思った。青色と黄色の電飾で飾られたドアを開けると、店の奥のカウンターに彼女はいた。入ってきた客が僕だと分かるとモカは驚いた顔をし、それから親しげに微笑んだ。
「あら、ヨウ。いらっしゃい」
「長閑なところだね。表に鹿がいた」
「ええ、いるわ。でもそれ、ロボットよ」
「ロボット?」
「そう。見回りロボット」
「何で鹿?」
「さあ。足が速いからじゃないかしら」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「他にもいろいろいるわよ。チーターとか、羊とか」
「へえ……」
 窓から外を見ると、鹿はあたりを睥睨するように悠然と歩いていた。鹿の顔がこっちを向いた時、僕はとっさに壁に隠れた。
「あはは。大丈夫よ。攻撃はしないから。見回るだけ。鹿のAIが不審なものを感知したら自動で指令室に通報がいって、攻撃部隊は別から来るから」
「いやいや、怖いって」
「触ることもできるけど、触ってみる?」
「いや、いい……」
 モカはクスクスと笑っている。自分の店の中だからだろうか、モカは昨日よりも穏やかで寛いでいるように見えた。店内は白と茶を基調としたシンプルな内装で、たまごのような丸い照明が柔らかい光を放ち、ハープの曲が小さく流れていた。
「意外」
 と僕が言うと、
「意外?」
 とモカは首を傾げた。
「占いの店って、もっと妖しい感じかと思ってた」
「暗くてお香が焚いてあって何枚もカーテンを潜っていって、みたいな?」
「うん」
「そういう店もあるけどね。でもうちは若い子や近所の人たちにも気軽に来てもらいたいから」
「すごくいい感じ」
「ありがとう」
 僕とモカが話していると、どこからか青い揚羽蝶が飛んできてモカの頭のまわりをくるくると飛んだ。
「はい」
 とモカが言うと、蝶は彼女の耳に留まった。
「モカ、今いい?」
 蝶がしゃべった! そのことに僕は驚いたが、次にモカが言ったことにもっと驚いた。
「ママ。どうしたの」
 ママ? ママだって? 蝶が? モカは僕に目で詫びて、『ママ』と話し始めた。モカと蝶が話している間に、僕はいろいろなことを考えた。蝶がママってどういうことだろう。こっちの世界のテクノロジーが進んでいることを考えると、蝶は人工生命体で、モカのお母さんの意識が移植されているのかもしれない。前に映画で観たことがある。人が死ぬ前に意識をコンピューターに移しておけば、その人はコンピューターの中で永遠に生き続けることができるという。もちろん意識そのものが移植できるわけじゃない。記憶とか、思考パターンとか、そういうものをデータにして取り込んで、その人にそっくりな人格をコンピューターの中に構築するということなのだろうが……。そうなると、モカのお母さんは、もう亡くなっているのだろうか。コンピューターに移植した意識をまた人工生命体に移植しているのだろうか。ここでは亡くなった人をそういう形で生かし続けることが普通なのだろうか。しかし……何で蝶? 考えているうちに二人は話し終わったらしく、蝶はまたどこかに飛んでいった。
「ごめんね」
「ううん、あの……さっきの、お母さん?」
「うん。そうよ」
「蝶だったよね……何で?」
 モカはきょとんとしていた。何を言っているのか分からないという顔だ。それから彼女はぶっと吹き出し、笑い出した。
「やだ、ヨウったら、本気で言ってるの?」
「え」
「あれは携帯電話よ! 蝶がお母さんのわけないわ!」
「け、携帯電話?」
 モカはしばらく笑いが止まらなかった。
「ああ、可笑しい。ヨウって本当に別の世界から来たみたいね」
「そうだよ。昨日からずっと言ってるじゃないか」
 つい声が尖ってしまった。
「ごめんなさい、実はちょっと疑ってたのよ。だって、地面の裏側に別の世界があるなんて、簡単に信じられる話じゃないわ」
「そうだよね……」
 それはそうだ。僕だって、実際にこの目で見るまで、本当は全く信じていなかった。
 しばらく二人とも沈黙した。やがてモカが、
「もう七年になるんだわ」と、ぽつりと言った。「もうすぐ命日なの。ママの電話はそのことで」
「命日……誰の?」
「弟」
「…………」
「殺されたの」
 モカの表情は複雑だった。穏やかなような、痛々しいような。両手はきつく握り締められていた。彼女はまだ立ち直ってはいないのだ。

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