内側の世界へ帰るトンネルの入口のところまでモカは車で送ってくれた。そこは廃墟となったおそらく工場の敷地であるらしく、誰も寄り付かなそうな寂れた場所だった。高い崖の上にあり、眼下には街が一望できた。
モカの弟について、僕は何も触れることができなかった。「死んだ」のではなく、「殺された」と彼女が言ったことが引っ掛かっていた。彼女の雰囲気にどこか翳りが感じられるのは、そのことが関係しているのだろうか。しかし妙だと思った。「死んだ」のではなく「殺された」のなら、犯人に対する怒りが滲み出てもおかしくはないのではないだろうか。しかし彼女のそういった感情は、外ではなく、内側──彼女自身に向いているような気がした。弟の死に対して、彼女はまるで負い目を感じているようだった。まるで彼女が罪を背負っているかのような……。
もしや、彼女が弟を死なせた?
──彼女が殺した……。
いやいや、まさか……。
「大丈夫? 落ちないでね」
モカの声で僕は我に返った。縦穴を降りる僕に、彼女は手を貸してくれていた。僕の挙動を心配そうに見守る彼女の顔を見て、僕はふっと心が緩み、そして後悔した。
僕は何を考えていたのだろう。こんな優しそうな女性のせいで人が死ぬなんてことがあるわけがない。僕は気を取り直して彼女に笑顔を向けた。
「モカも一度こっちに遊びに来てみなよ。おもしろいよ。いろいろ違ってて」
僕は冗談ぽく彼女に言った。彼女は、そうね、と言って、地面の穴をじっと見た。
「遠慮しておくわ。泥だらけになりそうだもの」
僕の軽口に真面目に答える彼女が可愛かった。
「確かに」
笑みが満面に滲み出そうになるのを必死にこらえながら僕が言うと、彼女はふわりと微笑んだ。その微笑みが、女神のように見えてしまった。離れたくない、と思った。しかし僕のそんな願いは届くはずもなく、彼女の手は静かに離れた。
「じゃあね、ヨウ。元気でね」
「うん。モカ、いろいろありがとう」
僕は午前十一時に自分の家に戻ってきた。シャワーを浴びてから、電波が届かなかった間に届いたメッセージをセンターに問い合わせると、十六件あった。そのうち十五件がネットショップや企業からのお知らせで、一件がリリィからだった。祭りのファイナルに一緒に行かないかという誘いだった。ファイナルとは、今日のことだ。メッセージの日付は一昨日になっている。慌てて返事を送ったが、リリィからの返信はなかった。
ボスのナハトムジークはとてもスッキリとした顔をしていた。三日間眠りっぱなしで一度も起きなかったという話を部下──すなわち僕の同僚──であるリュウとショーンに自慢げに話している。僕はマークの姿を探した。外側の世界で買ったレッドフレイムを、僕はズボンのポケットに入れて持ってきていた。マークは幸いひとりでいて、口笛を吹きながら作業机にハンディモップを掛けていた。
「マーク、おはよう」
「ヨーウ、元気だったか」マークは右手──すなわちモップ──をあげて言い、ちょっと考える顔をしてからこんなことを言う。「ヨウって便利な名前だな。挨拶と名前が一度に言える」
「そんなことどうでもいいから」僕は声をひそめた。「ところであれ、どうなった?」
「何のことだ?」
「指輪だよ。レッドフレイムを使いたいって言ってた」
「ああ、あれか! いいんだ、もう」マークは陽気に言い、親指を立てた。「解決した」
「へえ」
「ヨウ、この世で最も尊いものは何だ」
などとマークは突然真顔で言い出した。こういう時、マークが求めている答えはこれだ。
「……あ、愛?」
「そう、愛だ。愛があれば高価な宝石など必要ない! つまり……」
「つまり?」
「マチルダには靴を買ってやることにした。妥協じゃないぞ! この連休に二人で行ったイースト地区の店にあったやつだ。マチルダが見惚れていた。それをこっそり買ってプレゼントするつもりだ」
「そうか……じゃあレッドフレイムは必要ない?」
「ああ、必要ない」マークはきっぱりと言った。「靴があるからな!」
「愛じゃないのか」
マークは僕の肩を抱くように大きく叩くと、オペラのような雄大な歌をうろ覚えのデタラメな歌詞で歌い出した。リュウとショーンが何事かと振り返って見ている。まるで一杯引っ掛けてきたかのようなテンションだ。まあ、いつものことだが。
結局レッドフレイムは僕のポケットから出ることはなかった。
家に帰ると僕は自分の部屋の机に向かって座り、余っていたリングケースに紙袋から出したレッドフレイムを載せてみた。小さな白いクッションの上にちょこんと載った赤い宝石。それはまるで大切なお姫様のように見えた。
レッドフレイムを手放さずに済んだことに、思いがけずほっとしていることに気が付いた。
赤い輝きのまわりには、もやもやと、淡く優しくモカのイメージが漂っている。ふと、そこに引き込まれるような感覚がした。
──物語が呼んでいる。
僕は目を閉じ、茫漠とした靄の中に彷徨い出た。