長編小説

彼女がドーナツを守る理由 19

「信じられないな」
 目の前には幾つもの球体が浮かんでいる。それらは次から次へと現れ、視界いっぱいになったかと思うとまた小さな点になり、やがて消えてゆく。
「石頭ね」モカが言った。「空に浮かんでいる『星』は、あれは照明器具ではなくてひとつひとつが大きな石やガスの塊なのよ。光っているのは、スイッチがオンになってるからじゃなく(ここでモカは、こらえきれなくなったようにちょっと笑った)、燃えているの。光る星は『恒星』といって、誕生した時からずっと燃え続けるの。光る星だけじゃなくて、光らない星もあるわ。あたしたちが住んでる星もそのひとつ。この星も宇宙空間に浮かんでいるのよ」
「この地面も暗闇の中に浮かんで流れてるってこと?」
「そういうこと。例えばあの星の上に立って、こちらを見れば、あたしたちの星も他の星と同じように小さく見えるのよ」
 モカは窓の外の空を指差しながら言った。
「……頭が痛くなりそうだ」
 休日、僕はまたモカの店に来ていた。モカはトンネルの出口に薄い鉄板で蓋をしてくれていた。そこから彼女の店までは歩いて来られる距離だった。途中で迷ったが、見たことのある鹿がいたので付いていくと、見覚えのある場所まで来ることができた。
 僕が来たのを見てもモカは驚かなかった。つんと澄ましたような表情を変えないまま、感情の分からない平坦な声で言う。
「そういえば、宇宙のことをまだ教えていなかったわね」
 まるで僕が馴染みの客か近所に住む友人のようにモカは僕をごく自然に迎えた。歓迎するでもなく迷惑そうでもなく、ただあたりまえのように。実はまた来ても良いものかどうか、だいぶ逡巡したのだった。そんな僕にとって、モカのその何でもなさそうな態度は、嬉しかった。
 対面する形に椅子が二脚置かれているテーブルに僕を着かせ、モカはカウンターの下から小型のCDプレイヤーのような機械を取り出してきた。音楽でも掛けてくれるつもりなのかと思ったら、モカはそれをテーブルに置き、
「メモリープレイヤーよ」と言った。「知ってるかもしれないけど」
「いいや、知らない」
 そんな名称は聞いたこともなかったし、目の前の機械はCDプレイヤーでなければ、ホースの付いていない掃除機かちょっとオシャレな炊飯器にしか見えなかった。そう、とモカは言い、機械と一緒に持ってきた小箱を開けて青色のビー玉に見えるものを取り出した。
「これはメモリーボール」
 機械の蓋を開けてカランとボールを入れ、モカはボタンを押した。
「見えづらいから明かりを消すわ」
 モカは店内の照明を消した。真っ暗になった部屋の中、僕の目の前には眩い星空が広がっていた。わあ、と思わず歓声が出る。
「この沢山の星が散らばっている場所を宇宙というのよ」
 星空の向こうからモカの声が届いた。
「宇宙……」
 だんだんと星がクローズアップされ、小さな光はやがて青やオレンジの球体になった。

「あたしたちがこの星に住んでるのと同じように、こういった他の星々にも生物が住んでいるの。そういう生物のことを『異星人』というのよ。そしてこの星にやって来た異星人を取り締まるのがあたしの仕事」
「あんな小さな点に生物がいるの?」僕は窓の外に目を遣った。「やっぱり信じられないな」
「光の速度はどのくらいか知ってる?」
 モカが言った。
「え? いいや、知らない。すごく速いと思うけど……時速千キロくらい?」
「秒速約三十万キロメートルよ」
「三十万……え、秒速?」
「その光が一年間に進む距離を一光年といって、ああいう星はここから何光年も何十光年も離れているの。だから小さく見えるのよ。実際は小さくないわ。あたしたちのこの星よりも大きいくらいよ」
 とんでもない話に思えた。じいちゃん、『別世界』はとんでもないところだよ、と僕は思った。やっと別世界を見つけたと思ったら、実はそれは、無数の中のほんのひとつに過ぎないのだという。一体本当の世界はどれだけ大きいというのだ。僕が今まで信じていた世界は何だったのだ。あの小さな世界を十分広いと思って、あの世界がこの世で唯一のものだと信じて生きてきたのに。あの中に閉じ込められている人々は何なのだ? 何故僕たちは『本当のこと』を知らされない? とここで僕は疑問に思った。
「ちょっと待って、そんな遠くからどうやって来るの?」
「ワームホールを使うの。ブラックホールは分かる?」
 僕は首を振った。何も分からな過ぎて、情けなくなってきた。
「ブラックホールというのは、近くにあるものを全て吸い込んでしまう天体の一種なの。巨大な星が一生を終えた後の姿よ。重力崩壊という現象を起こして、果てしなく収縮し続けているの。入ってしまったら光さえも出られないから、『ブラックホール』。そのブラックホールを、二つ繋ぎ合わせると、宇宙空間を短縮できるトンネルができるの。普通は何年もかかる距離が、ワームホールを使うとあっという間」
 もはや理解の範疇を越えている。僕は笑うしかなかった。
「ファンタジーみたいだ」
「現実の話よ。ワームホールを使って、異星人はこの星にやって来るの。豊富にある宝石を狙って来るのよ。強欲で凶暴で、残忍な奴らよ」
 モカの声は暗かった。

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