長編小説

彼女がドーナツを守る理由 20

『彼女は荒涼とした大地に立っている。頭上に広がるのは無数の小さな光る宝石を散らした無限の暗闇。ひときわ明るく輝く赤い宝石が暗い大地にほの明るい光を落とし、彼女が両手に握り締めている二丁のレーザー銃の銀色の銃身を赤く染める。彼女は秘密組織DBAに所属する特別警備部隊隊員だ。見に纏うのは暗闇に紛れる真っ黒なスーツ。漆黒の長い髪が空気を切り裂くような素早い身のこなしで目標に近づき、相手が何が起こったのかも理解しないうちに息の根を止める』
 DBAというものの存在について、最初に考えたのはいつだっただろうか。
 僕はそう思い、キーボードを打つ手を止めた。
 そう、あれは確か、小学校四年生くらいの時だ。子供たちの間で流行っていた噂があった。この世界のどこかに、『DBA基地』というのがあって、そこでは日々、とても公にはできないような怪しげな研究や実験が行われているというのだ。タイムマシンがあるとか、遺伝子を操って出来た怪物がいるとか……。クラスメイトたちは熱心にその存在の有無を議論し、探しに行こうと言い出す者もいた。誰でも一度は通る道だ。実際に探しに行く奴なんか滅多にいない。そのうち他のこと──サッカーとか、ゲームとか──に夢中になり、DBAのことは忘れ去られていく。十代後半にもなるとそれは単なる冗談の種になり、大人になってからは、言うことを聞かない子供に対して使われる脅し文句となる。
 DBAとはつまり、都市伝説の一種なのだ。つまり架空の存在。僕の小説の中の架空の『彼女』が属する組織の名称としてDBAと名付けることは、シャレがきいていておもしろいと思った。
『彼女』はくっきりと整った美しい顔立ちをしている。とても戦闘できるとは思えない華奢な身体。腰まで届く艶やかな黒髪。彼女の名前は……名前は……。
 パソコン画面から視線をずらすと、机の上に置いてあるリングケースが目に留まった。白いクッションの上で、レッドフレイムがモカのようにつんと澄まして光っていた。
 モカ。
 僕は物語の中の『彼女』に、『モカ』と仮の名前を付けた。
 リングケースを目の高さまで持ち上げて、宝石を見つめる。自然と笑みが浮かんできた。次の休日にもモカと会う約束をしていた。モカは僕にある人物を紹介してくれるのだという。

 僕がレッドフレイムだけでなく他の宝石も一切本物を見たことがなく、アクセサリー工房で働いていながら、地金の他にはガラスやアクリルしか扱ったことがないということに、モカはひどく驚いていた。
「ヨウのところには宝石がないの?」
 モカは黒い宝石のような目を真ん丸くして言った。
「ないわけじゃないけど、すごく数が少ないんだ。だから信じられないくらい高価なんだよ。普通の一般人は宝石なんて持っていない。大会社の社長とかなら一個か二個くらいは持ってるかもしれないけど。どのくらいの価値かといったら……そうだな、例えばモカのそのペンダントひとつあったら、軽々とお城が建つんだよ」
「あら、じゃああたしはヨウの世界に行けばお姫様になれるのかしら」
 モカは、ニヤリ、という顔で笑った。反対に、モカたちの世界ではすでに絶滅している生物の多くが、僕たちのほうでは普通に生息していることにモカは衝撃を受けたようだった。本物の猫や犬が一般家庭で飼われ、湖で糸を垂らせば魚が釣れ、動物園や水族館へ行けば実に多種多様な(しかも本物の)生物を見られるということに。
「たった一枚地面を隔てただけなのに、こっちとそっちとではまるで別世界なのね」モカは感嘆混じりに言った。「でもどうして、こんなにもお互いのことを知らないのかしら。同じ地面の裏表のことなのに」
 もっともだ、と僕は思った。

 週明け、工房に出勤すると、何やら皆がソワソワしているような、浮き立った雰囲気があった。何かあったのかと尋ねようとマークを探すと、彼は、顔から滲み出る笑みを押さえつけようとして失敗したような、この場でいちばん変な顔をしていた。珍しく朝から作業場にいるボスのナハトムジークと目が合った。
「全員揃ったな」彼は全体をざっと見回すと声を張った。「聞いてくれ。嬉しい知らせだ。我らがマークが、カリント・デザイン賞を受賞した!」
 わあっと歓声が上がり、皆がマークに拍手を送った。僕も思わず、おおっと声を上げた。カリント・デザイン賞は、世界的ファッションブランド『Carin』の創始者が立ち上げた賞で、これまでにも『SILICA』や『Icing』など有名ブランドのデザイナーたちが受賞してきている。デザイナーなら誰もが憧れる、栄誉ある賞だ。それをまさかマークが──いいや、マークのデザインは確かに素晴らしいが──こんなに身近な人間が受賞するなんて、夢にも思ったことがなかった。マークは盛大な拍手に包まれ、照れたように笑いながら目を潤ませているように見える。それを見て僕も目頭が熱くなった。そうだ、これはそれほどにすごい賞なのだ。あのマークが涙するほどに……。
「それから、ヨウ!」
「ヘェ? はい」
 突然ボスに名前を呼ばれ、素っ頓狂な声が出てしまった。皆の視線がこちらに集まる。何ともいえない居心地の悪さを味わった一瞬後、
「マークのあのデザインを忠実に作り上げてみせたおまえの技術にも注目が集まっている。残念ながら賞などはないが、雑誌の取材が来るぞ。覚悟しておけよ」
 ボスがニンマリと笑ってみせ、拍手がもう一度沸き起こる。誰かがピューッと口笛を鳴らした。
 何だって? 雑誌の取材? 突然のことに頭が回らない。確かにマークのやたら複雑なデザインのネックレスを作りはしたが(ひと月掛かった)、マークのデザインが複雑なのはいつものことじゃないか。何でまた急に……あ、カリント・デザイン賞をマークが受賞したからか。そんなおこぼれで取材なんか受けて良いのか? 戸惑いながらマークに目を向けると、なんとも誇らしげな顔で微笑まれてしまった。いまだ鳴り続いている拍手に合わせて僕はまたマークに拍手を送り、同じような笑顔を返したのだった。

 取材はその日の午後にやって来た。驚いたことに、その雑誌は全世界で出版されている某有名男性向けファッション誌だった。事前にそれを知らせなかったボスに僕は感謝した。知っていたら、きっとトンズラしたことだろう。イツキ叔父の雑誌に短い小説が載るのとではわけが違う(ごめん叔父さん)。
 取材中に撮られた写真を確認させてもらったら、必死に平静を装いながら、ぎこちない笑みを浮かべる僕がそこにいた。

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