長編小説

彼女がドーナツを守る理由 21

 素朴なログハウス風のその建物のすぐ後ろには、黒々とした山がそびえていた。モカのいとこの工房──モカのいとこの父親の友人の工房だ。正確には──は街外れの山の麓にあった。モカが僕に紹介してくれる人物というのは、モカの十歳上のいとこだった(モカはそのいとこのことを「お兄ちゃん」と呼んだ)。「お兄ちゃん」は、宝石を加工する仕事をしているらしい。モカが僕のことを彼に話したら──何と話したのかは知らないが──仕事を見せてやると言ってくれたのだという。
 ログハウスの軒下にはランタンが灯って、入口とその周囲を照らしているが、それ以外に頼りになる明かりといえば星明かりだけだった。華やかな街から離れ静かで落ち着いた場所だが、背後にそびえる黒い山が不気味で逆に落ち着かないような気もする場所だ。こういった山々は、ほとんどが宝石を産出する鉱山なのだという。鉱山にはあらゆる種類の鉱物が豊富に眠っていて、モカの言葉を借りれば、「宝石がザックザック採れる」らしい。麓から見た限りでは、ただの黒い恐ろしげな山だ。
 僕は今、こんな暗い場所にひとりきりで立ち、所在なくあたりを見回している。ここへはモカの車で二人で来たのだが、到着するなり何故かモカは僕ひとりを車から降ろし、「ちょっとここで待ってて」と言い残して、どこかへ走り去ってしまったのだった。
 山の反対側、遠くのほうには街が見えた。煌びやかな光の帯のように見える街の明かりがまるで夢の景色のように幻想的だ。モカはどこへ行ってしまったのだろう。そう思いながら再び山に目を向けると、山の中腹で突然音もなく強い閃光が走った。数分後、モカは行った時と同じクールな顔で戻ってきた。
「どこに行ってきたの」
 と僕は訊いたが、実はその答えは知っていた。何となく訊かずにいられなかった。自分の心臓の音が大きく感じる。
「別に、そのへん」
 と答えたモカはいつもと同じくクールなままだった。いや、いつも以上にクールといえた。
 冷徹。
 今のモカはまさに冷徹そのものだった。僕は彼女の横顔に寒気すら覚えた。

「お兄ちゃん」
 先に立って工房のドアを開け、中にいた三十過ぎくらいの男に言ったモカは、もうクールでも冷徹でもなくなっていた。甘い響きを含んだモカのその声は、お気に入りの人間に対して発せられる子供の声だった。
 僕は胸がチリチリとするのを感じた。
──何だ、これ。もしかして嫉妬か?
 基本的に人間に興味のない僕は、嫉妬という感情を現実に体験したことがなかった。それは書物の中だけにあり、他人の中だけにあるものだった。本で読んだ感じだとそれは怒りのような感情だと思っていたが、今感じているのは、モカのいとこに理不尽な悪感情を抱く自分の無様さだった。
 モカがいとこと仲が良いのはおかしなことではない。幼い頃から知っているのだろう。男性といっても十も年上だし、それに彼はいとこだ。それなのにおもしろくなかった。理不尽極まりない。
 けれど本で読んだことがある。恋とは理不尽で、無様で、そして尚且つ美しいのだと。
 そうか、恋とはそういうものなんだな、と僕は思い納得しようとした。恋する人の親しい人間に嫉妬している自分のこの状態が『美しい』とは到底思えなかったが。
 僕がモカに恋をしているということは、もう疑いようがなかった。それは僕にとって初めての感情だった。そしてそれは、他人の行動のいちいち、一挙手一投足に大きく心を揺さぶられることなのだと知った。
 何か、こういうのどこかで……と僕は思い、AIが人間の中で過ごすうちに感情というものを学び人間に近付いていくという映画を思い出した。
 そうか、僕は人間になろうとしているのか。そう思うと何だか可笑しかった。
「モカ! 何だ、また可愛くなったな!」
 モカのいとこはそう言いながら、小さな子供にするようにモカをぎゅうぎゅうと抱き締めている。モカがまるでイツキ叔父のところの小さなアリスに見えた。モカも子供の頃はアリスのようにおてんばだったのだろうか。
「君がヨウくんか」いとこは言い、手を差し出した。「よろしく」
「よろしくお願いします。今日はありがとうございます」
 いとこの手は大きくて温かく、握るとすっぽりと包み込まれるようだった。大人の手という感じだ。僕はまた胸がチリチリとした。

 工房にはもうひとり、座って黙々と作業をしている職人がいた。いとこよりも更に年上で、見たところ四十代から五十代くらいだろうか。ブローチの台座に、スクエアカットの赤い宝石を嵌め込んでいた。
「ルビーのブローチ。オーダーメイドの品だ。台座が見えないようにという注文でね」職人の背後に立ち、モカのいとこはひそひそ声で言った。「パズルみたいだろう。ピッタリ嵌まるように宝石の大きさを計算してカットしなければならないから、高度な技術が必要な技法だ。ちょうど見られてラッキーだったね」
 薔薇の形のブローチには五十石以上が使われていたが、石と石との間には少しの隙間も空いていなかった。僕は思わずため息をこぼしかけて、慌ててそれを抑えた。モカのいとこは職人の手元に見入っている僕とモカをちょんちょんと指で突いて、
「こっちへ来て」
 と小声で言った。僕たちは職人の邪魔にならないように静かにそこを離れた。その後モカのいとこは宝石の研磨を見せてくれたり、原石や加工後の宝石を触らせてくれたりした。本物の宝石はやはり、ガラスとは全然違う美しい輝きを持っていた。そんな宝石を豊富に扱うことのできるこちらの世界の職人を、僕は羨ましく思った。僕にとってこちら側の世界は、今までいた世界よりもずっと魅力的に思えた。

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