美術館では印象派展というのをやっていた。館内は広くて白くてしんと静かで、まるで紙でできた箱の中のようだった。真っ白な壁に間隔を置いて並べられた絵を、誰もがまるで厳粛な儀式のように黙ったままゆっくりと眺めていく。モカはひとつひとつの絵を興味深そうにじっくりと眺めた。どうやらモカは絵のモチーフよりも、境界のはっきりしないリンゴや植物や貴婦人の顔の上に塗られた色や筆のタッチを眺めているようだった。奇妙な楽しみ方だと思ったが、しかし芸術の楽しみ方は人それぞれだ。
僕は印象派の技法やら構図やら複雑に重ねられた色彩やらよりも、単純にそこに描かれている人物、いや何なら、そこここで絵を眺めたり休憩したりしている人たちのほうに興味が向いていた。
あまり変わらないんだな、と僕は思った。外側に住む人たちと内側に住む人たちは、外見上、大きな違いはないように見えた。少なくとも、ぱっと見ただけでは見分けがつかない。どちらかの世界の人がもう一方の世界に紛れ込んでも、きっと本人が言わない限り分からないだろう。
今さらこんなことが気になり出したのは、モカとの将来を考え始めたからだった。こっちの世界に移住することができないだろうかと僕は思っていた。
『神隠し』という現象について考えた。ある時突然、人が姿を消してしまう『神隠し』
今にして思えば、向こう側の世界で姿を消した人たちは、こちらの世界にたどり着き、こちらの人間として普通に暮らしているのかもしれない。もしそうならば向こうの世界をいくら探しても見つからないわけだ。
僕の家の庭の穴の他に、二つの世界を繋ぐトンネルはまだあるのだろう。『神隠し』といえば普通は遭遇したくない不気味な現象だが、実際は本人が望んだことなのかもしれない。人をもう一方の世界に密かに移住させる裏ビジネスでもあるのだろうか。
印象派展の部屋を全て見終えても、まだ他に展示室があった。それは常設展で、入ってみると部屋いっぱいに設えられたガラスケースに数々の宝石が収められていた。僕はまるで漫画のように自分の目がキランキランになったように感じた。
「すごい、まるで宝島だ」
僕は小声でモカに言った。
「宝島」
モカも小声で言い、ふっと笑った。きっとまた僕のことを子供みたいだと思っているのだろうと思ったが、それでも僕は興奮を抑えられなかった。
「ここにあるもの全部、図鑑でしか見たことがないよ。うわあ……ダイヤモンドのティアラ。それにあのエメラルドの指輪……」それは本当に信じられないような光景だった。子供の頃に絵本で見て夢見ていた、宝石を一杯に積み込んだ船とか、宝物がうず高く積まれた山が幾つもある宝の島とか、そういったものが目の前にあるようなかんじだった。「信じられない。夢みたいだ」
夢中でガラスケースに見入っている僕とは対照的に、
「ふうん……」
とモカは全然興味がなさそうだった。
「モカは何とも思わないの?」
「だって、みんな古臭いデザインよ。こういうのに興味を持つのは考古学者くらいなものよ」
宝石自体が珍しくもないこの世界では、そういう感覚らしい。これだけの数の宝石を展示しているにもかかわらず、この部屋にはひとりの警備員も付いていないのだった。
美術館の後はレストランのオープンテラスで食事をした。前回の教訓から、料理の注文はモカに任せた。
「ヨウはどうしてアクセサリー職人になろうと思ったの?」
トマトソースっぽい赤いソースが絡んだパスタを皿の端でくるくるとフォークに巻き付けながらモカは言った。モカが注文するのを聞いていたが、やはりそれは僕には全く理解できない言葉だった。
「たまたま、かな」
モカがパスタを口に運ぶ上品な仕草に見惚れながら僕は言った。テラス席を吹き抜ける涼しい風が心地良い。
「大学に進学する気にならなくて、だから仕事を探していたんだ。その時出ていた求人案内の中に、今働いている工房のがあった。工作とか、物を作る作業は好きだし、手先も器用だからいいかなって思ったんだ。実はそれだけの理由なんだよ。仕事は楽しいよ。一応デザイナーの要望にも応えられてると思うし……」
僕の前にはステーキのような料理の載った皿が置かれている。ナイフで切ってみた感触は肉そのものだが、モカの話によると、こちらの世界に本物の肉というものはないらしい。ではこれは一体何なのか。僕はそう思ったが、あえて深く考えないことにした。モカが問いかけるような視線を向けてくる。それで? 続きがあるんでしょう? とその目は言っている。
「正直、収入を得られれば仕事は何でもいいと思ってる。勤め人をずっとするつもりはなくて、本当は小説家になりたいんだ。文章だけで食っていけるようになりたいって思ってる。工房の仲間には悪いと思うけど、仕事で成果を出せても昇進しても、虚しさを感じることがある。認められるのが小説だったならどんなにいいだろうって。小説だけを書いていられたらいいのに……才能のある人がうらやましいよ」
モカは、僕が将来小説家になれるともなれないとも言わなかった。彼女はただ、
「読んでみたいわ、ヨウの小説」と言った。眩しそうに目を細めて。「文章って人柄が出るもの。ヨウの書く小説はきっと、ロマンチックで優しい物語なんでしょうね」
にわかに通りのほうがざわざわし出した。目を向けると、いつの間にか通りの向こう側に即席のステージが作り上げられていた。ピアノ、ドラム、ベース、サックス、トランペットを持った男五人がそれぞれの位置に着き、ポツポツと音を出してみたり、通りすがる客に軽く挨拶をしてみたりしている。通行人やレストランの客が彼らに気付き始め、隣同士で囁き合ったり、ぱらぱらと拍手したりする。そして突然、前置きもなしに五つの楽器が爆発するように音を奏で始め、ゲリラ的なジャズライブが始まった。
アップテンポな曲が中心のライブは大変に盛り上がった。まるで屋根のように通りの上に掛かるブルーの電飾を付けた街路樹の下、レストランの客や通りに集まった観客が手拍子をし、サックスやトランペットのソロに歓声を上げ、バンドメンバーのトークに笑った。メンバーのトークはユニークで、僕もモカも涙が出るほど笑った。サックス奏者が観客を煽り、テラス席の客もみんな立ち上がってあたりはライブ会場と化した。音楽に合わせて手を振り上げ、身体を揺する。ここがレストランで、そして一般の道路だということを誰もが忘れてしまっていた。
「こんなに楽しいの初めて!」
目尻に涙をにじませながら、モカは最高に楽しそうな笑顔で言った。
数週間後にやって来る太陽のメンテナンス期間には、この星で一番大きな美術館に二人で行こうと約束した。
「また来週ね」
と言い合い、トンネルの入り口で僕たちは別れた。モカは僕の姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。
思えばこの日が、僕とモカにとって最高に幸せな瞬間だった。
その時の僕にとってこの日は二人の始まりの日で、これからもずっと一緒にいられるのだと信じて疑わなかった。この後の時間は、ただ別れに向かって進んでいくためだけにあるのだなんて、思いもしなかった。
この星で一番大きな美術館に行こうという二人の約束は、結局果たされることはなかったのである。