長編小説

彼女がドーナツを守る理由 27

「ゴルジ―ラ」
「ゴルジ―ラ」
「そう」
「それがこれ」
「うん」
 僕の前にはほとんど黒に近い焦げ茶色の、見慣れた液体が入ったカップがある。湯気と共に立ち昇る香りが芳しい。
「ヨウの世界では何ていうの?」
「コーヒー」
「こーひー?」
 ちょっとぎこちない発音でモカが繰り返す。小さな子供みたいだ。思わず笑みがこぼれる。
「そうそう」
「じゃあこれは?」
 とモカはテーブルの上のシュガーポットを指差した。
「これは、砂糖」
「さとう」
「うん。こっちでは?」
「〇△☆×▢」
「え、待って、全然分からない」
 アハハ、と笑うモカの頬がほんのりピンク色に染まって、可愛い。ランチタイムを少し過ぎた時間のカフェは客の入りもそう多くなく、ゆったりとしている。店内を照らす明るめの照明は、『外側の世界』の暗黙のルールというか習慣のようなものらしく、同じ店でも昼間のうちは照明を明るめに、夜は少し落とすというのが常識になっているのだという。気分の問題なのでしょう、というのがモカの見解だ。はっきりとした理由があるわけではないらしく、おそらくそれが正しいのだろう。気分の問題。気分は大事だ。
 窓の外に目を遣れば、煌びやかにライトアップされた街が見える。太陽というものがないこの世界では、街を彩る照明の明るさで昼夜の区別をつけている。明かりが眩い今は、昼間だということになる。『内側の世界』に暮らす僕にはやっぱり夜景に見えてしまうけれど、少しは慣れて、昼間なんだという意識が持てるようになった。昼間なのだという気分。同じ状況でも、『昼』であるか『夜』であるかでは、やはり気分は全然違う。
 何事も慣れなんだ、と僕は思う。慣れることさえできれば、きっとどこででも暮らしていける。
「覚えていかなきゃいけないな」
 メニュー表を手に取り、眺めながら僕は言った。ずらりと並ぶ意味不明な言葉に、これは前途多難だ、とクラクラしそうになる。
「覚えなくたって平気よ」モカは僕の手からメニュー表を取り上げて言った。「あたしがいるんだから」
「いない時に困るだろ」
「なあに、こっちに来てもあたしに会わないつもりなの?」
 テーブルの向こうでモカはふて腐れたような顔をしてみせる。以前はクールな印象だったモカだが、最近は表情豊かにいろんな顔を見せてくれるようになった。気を許してくれているのだな、と思うと、嬉しくなる。クールでミステリアスなのも素敵だが、今のほうがずっと好きだ。
「四六時中一緒ってわけにもいかないからね」テーブルに頬杖をついて、僕はモカの顔を見つめながら言った。「それともこれから先、死ぬまで毎食モカが僕のメニューを選んでくれる?」その様子をちょっと想像してみる。「それも悪くないけど」
「四六時中? 死ぬまで? 毎食?」
 状況が分からないというように、モカは瞳をぱちくりさせている。
「こっちに移住しようと思ってるんだ」
 僕が言うと、モカは大きな瞳をさらに大きく見開いた。その目は驚き、そして輝いていた。これが事実上のプロポーズだということに彼女が気付いたかどうかは分からないけれど。
「そんなことができるの?」
 まるで突然大きなデコレーションケーキが目の前に現れた子供のような顔でモカは言った。こんなに手放しで驚き、そして嬉しそうなモカは今までに見たことがなかった。彼女は常に冷静であるように自分をコントロールしているようで、感情の揺れをそのまま表に出すことがあまりない。そんな彼女の顔面に、こんな表情が見られるのはかなりレアだ。そしてそれは、他のことが全てどうでもよくなってしまうくらいに魅力的だった。ああ、何て可愛いんだろう、と僕は思った。彼女のこんな顔が見られるのなら、今すぐにでもこっちに越してきたいし、この先に起こるであろうどんな面倒事も、何だって乗り越えられるだろう。
「できるはずなんだ。向こうのことは何とかなる。こっちに来てからの身分証明をどうするかが問題点だけど、でもきっと何とかなるよ」
「本当に? そうなったら、もっと一緒にいられるのね。嬉しい」モカの瞳は潤んでいるように見えた。その時初めて、なかなか会えないことに寂しい思いをしているのは僕だけじゃなかったということに気が付いて、胸が締め付けられるようだった。「でも、どうしたらそんなことができるの? 別の世界から『移住してきた』人がいるなんて話、今まで聞いたことがないわ。そもそも別の世界があることをみんな知らないと思うけど……こっちに来てからのことはともかく、向こうの世界で人がひとり忽然と消えたりしたら、大騒ぎになるんじゃない?」
「それがそうでもないみたいなんだ」と僕は言ったが、実はこれに関しては、僕自身確証が持てているわけではなかった。きっとそうなのだろうという推測、そしてそうであってほしいというただの願望でしかない。しかし不確かではあっても、僕には縋り付くことのできる唯一の希望だった。「『神隠し』って聞いたことある? 人がある時突然姿を消してしまう不気味な現象なんだけど、これまでにも何度も、僕が知っているだけでも決して少なくない回数起こってるんだ。それが」と僕はここで人差し指を立てた。モカはじっと聞いている。「『神隠しである』といったん断定されてしまったら、それ以降はもう捜索も追及もされないみたいなんだ。僕らはもうそれが普通だと思ってしまっているけれど、考えてみたら変だよね。解決するまで捜索も捜査も続けられるのが普通なのに……。でもきっとそういうことだったんだって、この前やっと腑に落ちたんだ。『神隠し』で消えた人たちは、公にはされずにこっちに移住してきてるんだ。だから僕たちが知らないだけで、前例はいくらでもあると思うんだ……」
 僕の話を聞くにつれ、モカの顔からは浮かんでいた笑みが消えてゆき、しまいに眉根を寄せた彼女は何かを考えているようだった。その表情から察するに、きっとそれは、デザートは何にしようかしらとかいう楽しいことではない。
「モカ、どうかした? あ……『神隠し』って、あんまり穏やかな響きじゃないよね。でもそれがどう呼ばれてるかなんて別に……」
 僕が言った時、店の外が突然騒がしくなった。悲鳴や怒声が上がり、通りにいる人たちは混乱したようにあちらやこちらに走り回っている。動きを止めた車の列、次々と鳴らされるクラクション。何だ? と僕が思う間に、モカはさっと顔色を変え、バズーカだけを掴むと店の外へと飛び出していった。

        前へ次へ   1話へ

-長編小説