長編小説

彼女がドーナツを守る理由 29

「もう来ないでほしいの」
 と静かに言ったモカの言葉はあまりに突然で、僕は一瞬、それはこの外側の世界にだけある何かを指す特有の言葉なのかと思った。しかしモカの城であるこの占いの店の、カウンターの向こうにいる彼女のきつく噛みしめた唇や、僕を拒むような眼差しから、それがそのまんまの意味なのだと分かった。

 もう来ないでほしいの。

 僕は入り口のドアを潜ったその場所から、まるで結界でも張られているようにその先に踏み入ることができなくなった。一週間ぶりに触れられるはずだったモカがものすごく遠い。二人の間にある三メートルほどの厚さの空気が、まるで動かすことのできない透明な壁のようだ。
「何で?」
 僕は間抜けみたいに、そんな言葉しか出てこなかった。モカは横を向いてしまって答えない。僕のほうを見ようとしない横顔の、長い睫毛が震えていた。本心じゃない、と思いたかった。
「だって」モカは顔を背けたまま、絞り出すような声で言った。「……電話……くれなかったじゃない」
「電話? 電話って、しょうがないじゃないか。しようにも電波が届かないんだから……って、そうじゃないだろ。そんなことはモカだって知ってるじゃないか。本当のことを言ってよ。じゃないと納得できないよ」
 そう言ってから、僕は思った──聞けば納得できるのだろうか。納得するということは、つまりそういうことなのだろうか。
「別れたい……ってこと?」
 モカがきっと睨みつけるように僕を見た。
「そうよ!」
 と彼女は言ったが、しかしそう言ったのと同時に、彼女の瞳から涙がぽろりと零れた。一滴零れてしまったらもはや堪えられなくなったのか、取り繕うこともせず苦しそうに顔を歪めて、モカは大きな涙をボロボロと零した。駆け寄って抱き締めなければならない場面なのに、現実はそんな綺麗なことにはならず、泣いている好きな女を前にしても『結界』を踏み越えることができない臆病者の僕は、こんな離れた場所からただ見ていることしかできなかった。
 ようやく僕の身体が動くようになったのは、情けないことにモカがだいぶ落ち着き、
「ごめんなさい」
 とかすれた声で言った後だった。
「……何があったの」
 モカはまだためらうような顔をしてたが、一度ちらりと僕のほうを見ると、諦めたように口を開いた。気持ちを落ち着かせるためだろうか、カウンターの上に載っている籠の中に、赤い薔薇のドライフラワーを一枚ずつちぎっては入れながら。
「あたしね、占い師なんだけど……」
「うん、知ってるよ」
「よく当たるって評判なの」
 それも知っている。今更それが何だというのだと僕は思ったが、やっとモカが何かを話してくれそうな様子なので黙って頷いた。それから二三秒、薔薇をちぎるプチプチという音を僕は聞いた。
「それでね、普段は自分のことなんか占わないんだけど、最近少し不安を感じていて……ちょっとした思い付きで──出来心っていったほうがいいのかしら──占ってしまったの。あなたとあたしのこと」
 モカの表情は一段と暗くなった。
「心を落ち着かせるつもりだったのよ。きっと良い結果が出ると思っていたから。あなたとずっと一緒にいられる幸せな未来しか予想していなかったから」
「良くなかったの……?」
 だとしたらそれは僕に原因があるのだろうと思った。働くのをやめて小説だけ書いていたいと願う男との未来が──それも才能があるのならまだしも──輝かしいとはいえないのは当然の理だろう。占い師じゃなくても分かる。しかしモカの占いの結果は、僕の想像よりもはるかに悪かったようだ。
「とんでもない結果が出たわ」と彼女は怪談でも始まるような重々しい口調で言った。「二人の恋が、世界を滅ぼす」
「……ハッ!」思わず僕は笑ってしまった。それもすごく嫌な感じに。「馬鹿馬鹿しい! 僕ら二人、有名人でも重要人物でも何でもない一般人二人が恋をしたら世界が滅びるだって? 何だそれ。それを信じたの? くだらない! そんなもののために別れようだなんて……」
「そんなもの……」
 あっと気が付いた時には手遅れだった。モカは怒りのために今にも火を噴きそうな目をしていた。
「あたしの仕事を『そんなもの』だっていうのね。馬鹿馬鹿しい、くだらないって」
「モカ、ちが……」
 モカは薔薇の花びらをちぎって入れていた籠を掴むと、力任せに僕のほうへ投げ付けた。
「帰って」
 抑えた声に、怒鳴るよりもむしろ強い怒りを感じた。赤い薔薇のドライフラワーが舞い降って、モカに彩りを添えていた。まるで結婚式のフラワーシャワーのようだ。こんな時でもモカは綺麗だな、と、こんな状況なのに僕はそんなことを考えていた。他に何も思い浮かべることができなかった僕は、黙って踵を返すしかなかった。
「二度と顔を見せないで」
 冷え切ったモカの声に背中を押されながら、僕は黄色と青の電飾で飾られたドアの外に出た。

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