長編小説

彼女がドーナツを守る理由 30

 雨は嫌いだわ、と彼女は言っていた。

 ザアア、と激しい雨の音が、僕の身体を優しく包み込み、脳を満たして、思考を程よく鈍らせる。

 モカが雨を嫌いな理由は、ロングスカートの裾が濡れるからだった。モカはいつも長いスカートをはいていた。綺麗な色の薄い布を重ねた、踊り子の衣装のように軽やかなスカート。好んで着けていた金のアクセサリーや長く艶やかな黒髪、それに一見近寄りがたいような美貌と相まって、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。以前モカが打ち明けてくれた話によると、それらはモカが計算して身に纏っているものらしかった。占い師・モカのイメージのためよ、と彼女は言った。第一印象で、あ、何かこの人当たりそう、って思われることって大事でしょう? ま、実際にあたしの占いはよく当たるんだけど、そんなこと、馴染みじゃない人には分からないじゃない。イメージはとても大事よ。
 その日も外では雨が降っていた。ふーん、と僕は彼女の話を聞いていたのだが、耳に届く雨の音が心地良くて、それで僕は彼女に、何とはなしに言ってみたのだった。短いスカートにしてみたらいいじゃないか、と。雨に裾を濡らさないためには、濡れないていどに短くすればいい。
 雨のために? とモカはぷっと笑って言った。変な理屈ね。

 モカの呆れたような可愛い笑顔が虚空に浮かぶ。駅の階段に座り込んだ僕の前を行き過ぎるのは、雨を避けるように急ぎ足で歩く、名前も知らない人々だ。モカに別れを告げられたあの日から、僕は雨の降っている場所ばかりを選んで無為に時間を過ごしていた。仕事帰りに電車に乗り、雨の降っている駅でてきとうに降り、雨の音を聞きながら何も考えずに過ごす。雨の音を聞いていると気持ちが落ち着いた。それがなければ、頭の中が「どうして」という思いで溢れておかしくなってしまいそうだった。
 雨の音を聞いて、心を落ち着けて、何も考えず……
 そのつもりが、しかし、心に浮かぶのはやはりモカのことばかりだった。

 長いスカート以外の服を着ていた日もあった、と、僕の思考はまたモカと過ごした日々に立ち返る。
 あれはモカのおばあちゃんの誕生日パーティーが開かれていた日だ。
 モカはピンク色の『お嬢様風』ワンピースを着ていた。髪型もちょっと違っていて──まるで初めて見る女の子のようだったけれど、もちろんそんなモカもすごく素敵だった。それから、二人で見た流れ星、打ち明け合った想い、そしてモカとの初めてのキス……。
 冷たくて柔らかい唇の感触も、しっとりとした髪の手触りも、モカの香りも、全てはっきりと覚えている。
 ずっと一緒にいられますように、って、互いが同時に願いを掛けた。
 流れ星は願いを叶えてくれるんじゃなかったのか?
「駄目だ……」
 僕は口に出してつぶやいた。そして、まるでゴミ袋のように座していた階段から腰を上げた。

 モカにもう一度会わなければ。
 まだ怒っているかもしれない。
 モカの気持ちはきっと変わらないだろう。
 次は花びらではなく椅子が飛んでくるかもしれない。
 それでもいい。モカときちんと話したい。

 雨を見続けて一週間目、ようやく僕はモカに会いに行く決心をしたのだった。

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