長編小説

彼女がドーナツを守る理由 31

 意を決してトンネルの外に出ると、驚いたことにモカはそこにいた。崖の淵の少しばかり手前に、うつむいて座っている人影があった。まるで迎えが来ないことに失望した小さな女の子のようだった。ひとりきりで、崩れ落ちて重なった灰色のブロックの上に、彼女は座っていた。その姿は僕と同じくらいに悲しげに見えた。
 近付いていっても、モカは振り向いたりしなかった。
「モカ」と僕は呼びかけた。モカの肩がピクリと動いたが、それ以上の反応はなかった。モカの後ろ姿に向かって、僕は続けた。「僕はやっぱり諦められないよ。僕たち二人のために世界が滅びるってさ、そんなこともあるかもしれないけど……」いまだに僕はそんなことは信じていなかったが、だいぶ妥協してそんな風に言った。「未来っていうのは確定したものじゃないんだろう? 二人で何とか、回避できる道が見つけられるかもしれない。もう少し一緒に、頑張ってみないか……?」
 モカは何も言わなかった。崖の下には色とりどりの光に溢れる美しい街が広がっている。ロマンチックな夜景──こちらの世界ではこれが昼間の景色なのだが、僕はやはり『夜景』だと思ってしまう──も今の僕たちには何の役にも立たない。何の感慨もなくそれらの光を眺めていると、やがてとても小さい声で、モカが言った。
「あたしね、弟が死ぬこと知ってたの」
「え……」
「見たの」
「見たって、何を?」
「ビジョン」モカがそう言った時、一瞬空気がピリッとした。よほど忌まわしい、呪いの言葉でも口にしたかのようだった。「あたしの家系、代々不思議な力を持ってるの。未来が分かったり、普通の人は感じない『気』の流れを感じ取ったり。中でもおばあちゃんの力は強力だった。『気』を感じ取るだけじゃなく、操ることもできて、おばあちゃんが手をかざすだけで軽い病気なら治ってしまったといわれているくらい。あたしはその力を受け継いでいるらしいの。母はそれほど力があるわけではなかったから、隔世遺伝だったのね。その分あたしは期待をかけられて、おばあちゃんのようなまじない師になることを望まれたの。でもあたしはそれを拒否したの。だってあたしはミュージシャンになりたかったから」
 顔を仰向けて空をあおいだモカの頬は光っていた。空は今日も星で輝いている。眩しいと感じるほどに。
「十七歳の時だった。あたしはオーディション会場に向かうタクシーの中にいて、突然……そこにあるはずのない光景が見えたの。中学生だった弟が、必死に何かから逃げてた。そこに大きな生物が追いついて、鋭い爪で弟の背中を切り裂いた。人間じゃなかった。見たことのない不気味な姿をしていたわ。弟は血を流して倒れた……」
 モカは肩を震わせて泣いた。僕は彼女の隣に座り、肩を抱き寄せた。モカは僕のその手をぎゅっと握り締めた。
「あんなに鮮明なビジョンを見たのは初めてだった。現実かと思うくらいリアルだった。それが消えた後もしばらくショックで呆然としたわ。でも、あたし帰らなかったの! オーディションのせいでナーヴァスになっているせいだと思い込もうとした。きっとあたしは大きなオーディションに怖気づいていて、無意識のうちにそれから逃げるためにこんなビジョンを作り上げたんだって、そう自分に言い聞かせた。帰ったらきっと弟はピンピンしていて、オーディションをすっぽかして逃げ帰ったあたしを笑うに違いないわ、って。そう考えたら、リアル過ぎたビジョンも不自然に思えた。あたしは必死に気持ちを落ち着けてそのまま会場に向かったの。でも一時間後くらいに電話があって、病院に行った時には弟はもう死んでいた。異星人に殺されたの。ビジョンで見たとおりに、背中をバッサリ切られてた。もしあの時すぐに知らせに帰っていれば、きっと弟は死ななかったわ。……結局、あたしは弟の命よりも自分の夢を選んだのよ。オーディションに行きたかっただけなのよ……! 小憎たらしい弟なんかより……。弟の命はひとつしかなかったのに。オーディションなんか、後でいくらでもあったのに……。でも、それ以降、あたし全然歌えなくなったの。歌うための声が出ないの。これは罰よ。次に歌えるのはきっと……全てが、無くなる時……」
 僕を見上げたモカの瞳は潤んでいた。
「本当は嫌……」と、モカは絞り出すような声で言った。「別れたくなんかない。ずっと一緒にいたいわ。世界全部よりもあなたが大事よ。でも……あたしひとりの問題では済まないの。怖くてたまらないの。また大変なことが、取り返しのつかないことが起こるんじゃないかと思うと怖くてたまらないの。ごめんなさい、ヨウ。大切な人が、みんなが……死んでしまう気がして」
 モカの手は震えていた。彼女は苦しんでいた。きっと僕以上に苦しいはずだ。不確定なはずの未来に怯え、そのために自分を犠牲にする以外に選択肢のない彼女。
「ヨウ、ごめんなさい……」
 僕はモカの身体をぎゅっと抱き締めた。別れを告げられるよりも、告げるほうがずっと辛いのだ。二人とも別れたくなんかないのに。だとしたら、僕が彼女のためにできることはもう、ひとつしかない。
「分かった。もう会いにこない」
 僕はできる限りきっぱりと言った。彼女にこれ以上、悲しい言葉は言わせない。血を吐きそうな思いがしたが、声に表れないように必死に耐えた。腕の中で、モカの身体の力がふっと抜けた。
「あたしどうして、占いなんかしたのかしら……」
 力のない声でモカはつぶやいた。

 言葉もなくただ肩を寄せ合って座る僕たちの眼下で、街の明かりがだんだんと消えていく。このまま化石にでもなってしまえないだろうかと僕は思った。もしも今、流れ星が現れたら、そう願うだろう。でも、流れ星は願いを叶えてくれはしない。そのことをつい先ほど知ったばかりだ。やがて街の明かりが完全に消え、とうとうモカは立ち上がった。
「もう帰らなきゃいけないわ。ヨウ……」
「……うん」
 僕は立ち上がって、モカを力いっぱい抱き締めた。これで本当に最後なのだ。生まれて初めて愛したひと。モカの華奢で小さな身体、肌の匂い、髪の感触。僕は一生忘れないだろうと思った。モカは優しく僕から身体を離すと、
「忘れて」
 と言った。
「あたしのこと、忘れて」
 そしてするりと僕の腕を抜けて行ってしまった。闇の中で、一度も振り返らない彼女の長い髪が、星の光を受けてきらきらと輝いていた。

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