窓の外に花火が上がっている。人々は陽気さを取り戻し、不安をすっかり忘れたかのようだ。通りを歩く人の楽しそうなざわめきに、思わず頬が緩んだ。『陽気』というのも、悪くはないな、とこの時ばかりは思った。周りの人の明るさに、心が救われることもあるのだ。明るさとは、きっと強さの一種なのだろう。
僕はパソコンに向かいながらモニター越しに花火を見ていた。この頃の花火鑑賞はずっとこんな感じだ。以前は後ろにあるベッドにもたれてビールを飲みながらゆったりと眺めたものだが、今はそれでは暇で仕方がないと思える。ふと机に視線を落とすと、黒いベルトの腕時計が目に入った。その時計は今、午後八時過ぎを表示している。モカの世界の時間。彼女は今、夕食を終えてくつろいでいる頃だろうか。それともまだ店にいて、後片付けをしているのだろうか。このくらいの時間に普通モカが何をしているのか、僕は知らなかった。彼女について僕が知っていることは、ほんのわずかなのだ。そのことに今さらながら寂しさを感じた。彼女と一緒にいられた時間はあまりにも短かった。
モカに会いたい。
三ヶ月ごとのメンテナンス時期が来ると、どうしても考えてしまう。約束していた、この星で一番大きな美術館に、彼女と一緒に行きたかった。僕の想像では、その美術館はテーマパークほどの大きさの巨大な建造物で、有機的で幾何学的な奇妙な外観をしている。中はさながら迷路のようで、来館者は地図を片手に館内を巡るのだ。所々にある大きな吹き抜けの空間には、巨大な彫刻や建築物、それにいつかモカと見た宇宙が、本物そっくりのホログラム映像となって……パソコンの画面が一段階暗くなった。
「まずいまずい……」
僕は呟きながらマウスをてきとうに動かした。またスクリーンセーバーになってしまう。ベッドに放り投げていた携帯電話が鳴り出した。急いで取りに行き、着信を見ると、驚いたことにリリィからだった。
近くにいるというリリィを僕は家に呼んだ。玄関の外で待っていると、ほどなく見覚えのある金髪の女の子があたりを見回しながら歩いてきた。
「リリィ」
と呼ぶと、彼女はほっとした顔をして小走りにやってきた。軽やかに鳴るハイヒールの靴音を聞いて、ああ、リリィだなあと懐かしくなった。
一軒家なんだねー、ひとり暮らしなの? などと言いながらヴィンテージ感溢れる木造住宅の門を潜ったリリィを僕はリビングに案内した。フローリングにローテーブルとそれを囲んで座面の低いソファが並んでいるリビングは、テレビを見る時くらいしか使わないのでたいていいつも片付いている。庭に面したガラス戸を開けてから、太陽が消灯していることを思い出したのだが、まあいいかと思いそのまま開けておいた。閉め切っているより気持ちが楽だ。
「てきとうに座ってて」
とリリィに言って僕は隣の台所へコーヒーを淹れにいった。コーヒーができるのを待つ間、リリィはリビングで静かにしていた。用事だろうか、と今頃思った。話がしたいと言っていたから、やはり用事か。二年くらい会っていない人に用事ができる場合、それはどんなものだろうと僕は考えた。同窓会のお知らせくらいしか思い浮かばない。
コーヒーカップを二つ持ってリビングに戻ると、テーブルに白い箱が載っていた。さっきは気付かなかったが、リリィが持ってきたものらしい。
「お誕生日おめでとう」
何、と訊くより先にリリィが言った。彼女は箱を開け、中からフルーツとクリームで可愛らしくデコレーションされたケーキを取り出した。『2』と『4』の形の蝋燭が刺さっている。驚いていると、上目遣いに僕を見てリリィが言った。
「先月、お誕生日だったでしょ」
綺麗なブルーの瞳と視線がぶつかる。
「何で知ってるの」
「何故か知ってるの」
リリィは言って、ふふふと笑った。しゃべり方が少し大人っぽくなっていることに気が付いた。
「マーク」
「そう」
僕はリリィとテーブルの角を挟んだ隣に座った。座ってから、広いテーブルの端っこにわざわざぎゅっと集まって、『アリスの狂ったお茶会』のようだと思ったが、また立ってコーヒーを持って移動するのもそれはそれで挙動不審なので、狂ったお茶会スタイルでやり過ごすことにした。しばらく見ないうちにリリィはずいぶん雰囲気が変わったように思えた。しゃべり方だけでなく、服装や仕草も落ち着いて、まるで別人のようだ。
「ありがとう、嬉しいよ」
「火、つけるね」
リリィはライターまで用意していた。蝋燭に火をつけて吹き消し、二人でケーキを食べた。
「この前、駅でリリィを見たよ」
思い出して僕は言った。
「うん、リリィも。ていうか、いつも見てた」
「うそ」
「ヨウくんいつもぼーっとしてるんだもん」リリィはクスクスと笑った。「乗り過ごすんじゃないかって心配で」
「リリィに心配されるとはね」
「どういう意味?」
「いや、冗談。リリィは大人っぽくなったよね」
と言うと、リリィは照れたようだった。
「リリィも社会人になるんだもん」
そう言ったリリィの言い方が全然社会人らしくないので僕は笑った。
「会社で上司に、だもんとか言っちゃだめだよ」
「分かってるよ」
しばらくの間、最近どうとかリリィの就職先とかの雑談をしたが、どちらも二年前の、疎遠になった理由の出来事については触れなかった。今さら、という気がしたし、何をどう言っていいのかも分からなかった。
「コーヒーのおかわり持ってこようか」
会話が途切れた時、僕が立ち上がりかけると、
「いいの」
とリリィが驚くほど強い口調で言った。
「あ……そう?」
僕は浮かした尻をまたソファに戻した。
「ヨウくん、話したいことがあるの」
リリィは僕を真っ直ぐに見つめた。僕も思わず姿勢を正した。
「リリィと付き合ってください」
そう言ってリリィはペコリと頭を下げた。驚いた。僕はリリィに対して冷たかった記憶しかないのに、どうしてここまで想ってくれるのか。そして、それを嬉しいと思っているらしい自分にも驚いていた(驚いてばかりだ)。
「リリィ、ヨウくんのこと忘れようとしたの。でも忘れられなかったの。どうしてもヨウくんじゃなきゃだめ。お願い、リリィのこと、そんなに好きじゃなくてもいいから……そばにいたいの」
リリィに、自分の姿が重なった。好きな人のそばにいたいという必死の願い。僕の頭はその時変な風に働いた。モカとはもう会うこともできない。僕の願いは叶わなかったが、リリィのはまだ叶えることができる。叶わなかった僕の願いの代わりに……。
最後にモカと別れた日のことが目の前に蘇っていた。
どうすることもできなかった。
忘れて、と言って僕の腕をすり抜けていった彼女。遠ざかっていく後ろ姿。何度も蘇る光景。起きている時も、寝ている時も。
何度も。
何度も。
「いいよ。付き合おう」
ひとりきりでモカのことばかり考えるのは、もう疲れた。