長編小説

彼女がドーナツを守る理由 42

「じゃーん」
 と輝くばかりの笑顔で言ったリリィは一冊の本を手にしていた。僕は仕事から帰ってきたところで、まだ靴も脱いでいなかった。とりあえず靴を脱ぎ、それからリリィの持っている本を手に取った。
「叔父さんの本?」その本の名前はイツキ叔父が出している雑誌のものだった。新刊のようだ。発行日が今日になっている。「それがどうしたの」
 リリィはふふふと笑いながら僕から本を取り返し、パラパラとページをめくった。その含み笑いから、さてはモデルにでもなったかな、と思った。あるいは叔父さんとリリィのゆるい対談コーナーでも……そんなことを思っていると、

 レッド・スター

 という活字が目に飛び込んできた。どうも覚えのある言葉だ。その後に続く文章を目で追うと、これもまた覚えがある。
「これ……」
 心臓が止まってしまった。僕の小説じゃないか。何だ、これ。何故本になっている? おい、おまえ、引き出しの中で眠っているはずだろう。何でそんなところにいるんだ。
「おじさんに、この間のヨウくんの原稿を見てもらったの。そしたら、すごくおもしろいって。ヨウくんがどこにも出すつもりがないって言ってること話したら、それはもったいないって。ぜひ掲載させてくれって言われたから、そのまま渡してきちゃった」
 楽しそうにリリィは言う。僕は呆然と目を見開いたまま動けなかった。
「……いけなかった?」僕が何も言わないからか、リリィは悲しそうな顔で言った。「リリィも思ってたの、もったいないって。すごくおもしろいって思ったし、だからイツキ叔父さんにも見せたし──ヨウくん時々小説載せてもらってるって言ってたでしょ。その叔父さんが言うんだから間違いないって。雑誌に掲載するって、すごくいいと思ったの。ヨウくん、どこにも出さないって言ってたでしょ。そしたらあのまま埋もれたきりになっちゃう。黙ってたのはごめん。サプライズのつもりで……」
「サプライズ……うん、確かに、驚いた」
 やっとの思いで僕は言ったが、感情のない冷たい声になってしまった。あれ、サプライズって、こういうものだったっけ、と僕は思った。もっと楽しいものじゃなかったっけ。
「喜んでくれないの……」
 どんどん悲しそうになっていくリリィを見て、嬉しそうなふりでも……と思ったが(そうとも、彼女は良かれと思ってやったのだ)、できそうもなかった。僕はショックを受けているようだった。サプライズと言われて覆いのかかった皿を出され、開けてみたら自分の心臓だった、そんな気分だ。
「ごめん」
 と僕は言っていた。
「どうしてヨウくんが謝るの。謝るのはリリィのほう」
「いや……ごめん」
 それきり二人とも黙ってしまった。
 僕とリリィは、どんどんかみ合わなくなっていく。いや、そもそも、かみ合っていたことなんかあっただろうか?

「ヨウ、すまなかった」
 イツキ叔父に呼び出されて近所の居酒屋に出掛けていくと、開口一番叔父はそう言って頭を下げた。
「いや、いいよ、叔父さん」
 僕は叔父の向かいに座って言った。実際、もうどうでもいいことだと思っていた。
「おまえにまず了承を得るべきだった。当たり前のことなのになあ……どうかしちまってたなあ。いやな、リリィちゃんと話しているうちに、どうもこう、ノってきちまってな、善は急げだ、やってしまえ、って気になってしまったんだなあ……」
 二人してキャッキャと盛り上がっている、その光景が目に浮かぶようだった。リリィには他人をキャッキャさせる、妙な力がある(僕がそうならないのは、僕が暗いからだ)。
「本当、申し訳なかった!」
 叔父はパンと手を合わせてもう一度謝った後、僕を見てニヤリと笑った。
「……評判いいぞ」
「評判?」
「小説だよ。おまえの」
「本当に?」
 それは僕にとって意外だった。『レッド・スター』は、舞台設定がまず理解されないと思っていたのだ。『星』だの『異星人』だの、この世界で普通に生きていたらまず聞かない言葉だし、自分のためだけに書いた僕はそれについての説明を一切していない。読んだ人はどう解釈したのだろうか。架空の設定だと割り切って恋愛小説として読んだのだろうか。
「まあちょっと分かりにくいって言う奴もいるが、概ね好評だ。売り上げも珍しく伸びてる。この分だと増刷になりそうだ」
「マジで、叔父さん」
「マジよ」そう言って叔父は嬉しそうに笑った。「大作家誕生の第一歩だ。こんな雑誌でも誰の目に留まるか分からないからな」

 しかしその後叔父の本が増刷になることはなかった。それどころか、全て回収されるという事態になった。理由は、同じ号に載っていた写真が『猥褻物に当たるから』というものだったらしいが、それは実際の写真を見た人なら誰ひとりとして納得しなかっただろう。あるアマチュア写真家が撮ったというその写真は、女性が素肌に白い布を纏っているもので、確かに露出している肌は多いが、それは神話の女神を彷彿とさせるような美しい写真だったのだ。
 こうして僕の『レッド・スター』が載った叔父の雑誌は、発売から七日目、よく分からない理由でひっそりと消えた。

 差出人のない手紙がポストに届いたのは、そんな騒動から数日後のことだった。
「それだけじゃないのよ、ヨウくん、見て」リリィは言って封筒を指差した。「差出人だけじゃなくて、ここの住所も切手もないの」
「……本当だ」
 つまり誰かが直接入れたということだ。この家に来て、このポストに。封筒には、ただ僕の名前だけが記されていた。白い封筒に、黒い印刷文字で。
「不気味……」
 ブルブルっと震える真似をしてリリィは言った。僕が無頓着にそれを開けようとすると、
「開けるの?」
 と怯えた。
「平気だよ」
 たぶん、と思いながら僕は封筒を開けた。
 中に入っていたのは一枚の紙だった。メモ用紙のような小さな紙に、これも印刷文字でごく短い文章が綴られている。

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