一日かけてモカはこっちの世界のことを教えてくれ、街のあちこちに案内してくれた。クールな印象だったが、モカは案外面倒見が良く、親切だった。こちらの世界は、もう一方──僕が暮らしている『内側』の世界──に比べてずいぶんとハイテクで、驚くことがたくさんあった。しかし常識や道徳的観念については、そう違いはないようだった。道路は信号が青の時に渡るものだとか、飲酒や喫煙は二十歳を過ぎてからだとか、許可なく地面に穴を掘ると罪になるだとか、むやみにバズーカのような武器を持ち歩いてはいけないだとか(あたしはいいのよ、許可を得てるんだから、と、モカは言った)。
そろそろ夜になろうとしていた。街のイルミネーションがだんだんと消え始め、歩行者も少なくなった。これからまた、あの死んだような夜がやってくるのだ。そう思うとソワソワとしてきてしまう。僕は携帯電話の画面を見た。太陽のメンテナンス期間二日目の早朝だった。
「帰る?」
とモカが言った。僕は少し考えた。休日はあと二日残っている。
「あと一日こっちで過ごすよ。ホテルとかある?」
「あるわ」
案内されたそのホテルは、カフェやショップが立ち並び、目の前は噴水のある石畳の広場という洒落た場所にあった。ガードマンの立つエントランスを抜けると、天井の高い広々としたロビーが僕たちを迎えた。その内装に僕は目を見張った。綺麗に列を作って吊り下がり、上品な灯りを落とすシャンデリア。その柔らかい光を取り巻いて輝いている飾りは明らかにガラス玉ではないし、白と黒で幾何学模様を描く床は尋常じゃなくきらきらしている。ゆったりと配置された黒い革張りのソファに、壁一面の巨大水槽。汚いスニーカーに普段着のパーカーとジーンズの僕はどう見ても場違いだった。
「高いんじゃないの、ここ」
声をひそめて言うと、モカは平然とした顔で、
「普通よ」
と言った。フロントに問い合わせるとシングルルームに空室があった。モカの言う通り、値段はビジネスホテルと同じくらいだった。
「じゃああたしは帰るけど、何かあったらいけないからこれを渡しておくわ」
とモカは名刺をくれた。モカの名前の下に電話番号が二つと、地図が印刷されている。地図はホログラムになっており、一軒の家が立体的に見えていた。
「あたしのお店の地図と電話番号、それと携帯電話の番号よ。困ったことがあったら掛けてくれていいから」
僕の携帯電話はもちろん圏外だった。しかし彼女の気遣いは嬉しかった。何とかすれば連絡が取れるということも。彼女にまた会いたいと思っていた。
「モカ、今日はありがとう。君に会えて良かった」
感謝の気持ちを込めて言うと、モカはぽっと頬を染めた。しかし彼女のそんな顔を見られたのはほんの一瞬で、
「いいのよ、ヒマだったんだから。じゃ、おやすみなさい」
と言うと彼女はさっさと歩き去ってしまった。僕はそんな彼女の後ろ姿を呆けたように見送った。クールに見えた彼女の、意外な反応に驚いていた。一瞬垣間見えたモカの可愛らしい顔を、僕は何度でも思い返しては見惚れてしまうのだった。
じいちゃん、とうとうこっちに来ちゃったよ。『別世界』は本当にあったよ。
七階の客室から、僕は街を見下ろしていた。街は闇に沈んでいた。通りを歩く人の姿も完全に消え、一定の間隔を置いて立っている街灯がぼんやりと発光しているのがかえって不気味だ。
書庫の本棚の間で、よく祖父と一緒に別世界の空想を楽しんだ。
「恐竜がいるんだよ。家みたいにでっかいやつがいっぱいいてさ、カメとかダンゴ虫もこーんな大きいんだよ!」
僕が身振り手振りで話すと、
「妖精がいるかもしれんな。彼女らを驚かせんように、わしらは常に小声で話さねばならんのだ。葉っぱや木の枝を身に纏って姿を隠しながらな」
と、祖父はまるで今まさに妖精たちを目の前にしているかのように、真面目な顔で声をひそめて言うのだった。
別世界は巨人の世界になり、魔法使いの世界になり、逆さまの世界になり、饅頭ばかりの世界になった(饅頭は祖父の大好物だ)。
現実の『別世界』を見たら、祖父はどう思っただろう。がっかりしただろうか。ここは夢に見たような世界じゃない。人間が作り上げたハイテクノロジーの世界だ。
暗く死んだような街から空へと視線を移した。窓を開けると、涼しい風が流れ込んできた。空には相変わらず星が輝いている。黒い空間を埋め尽くすほどの無数の光。それは『対岸』の賑々しい街明かりとはまるで違っていた。あれだけの数の光源があるにも関わらず、見ていると不思議と心が休まるような優しい光だ。
あの星たちはどのあたりに浮かんでいるんだろう。一体誰が何のために、あんなにたくさんの明かりを空に浮かべたんだろう。僕らの『太陽』のように、やっぱり一斉にメンテナンスされる時期というのがあるのだろうか。
その数を数えようとして、とても無理だと諦めた。見ていると気が遠くなりそうだ。
赤に青に白に、あるものは新品のように明るく、あるものは小さく健気に、瞬きしながら輝く星々をみているうちに、いや、きっと祖父はこの世界を見て喜んだに違いない、と僕は思った。
どこまでも広がる無限の星の空なんて、僕も祖父も、想像したこともなかった。