第一章
午後三時、窓の外に雨が降り始めた。ザアアという心地良い音と雨の匂いがあたりに満ち、心なしか室内の温度が少し下がる。僕は手を止めて窓の外に目を遣った。
家々の屋根や、屋外に停められた自転車、工房の庭に自生する花や葉が、しっとりと雨に濡れていく。
雨というのは不思議だ。ただ水が散布されているだけなのに、見ていて飽きない。豪快に街が洗われる様が気持ち良いのだろうか。
僕は屋根より高いところに点在して水を噴き出しているスプリンクラーを想った。目を閉じて、その音にしばし耳を澄ます。
今日の天気予告は『やや強い雨』だった。時間は午後三時から五時の間。あと二時間は雨の音を聞いていられる。もう少しだけ目を閉じたまま、雨の音に耳を傾け、雨の日特有の冷たく潤いのある空気を味わった。それから僕は目を開けた。
やり掛けていた仕事に戻るため、手元に視線を落とす。
作業机の上に出されたプラスチックの引き出しの中には、小さな透明袋がぎっしりと入っている。その中に、直径三ミリから十ミリのレモン色のガラス玉が十個ずつくらい入っているのだ。袋は二百から三百はあるだろうか。一見全部同じ黄色のビーズだが、それぞれサイズや形、それにカットの仕方が違う。僕は『十ミリ・オーバルシェイプ・カボションカット』とか『五.五ミリ・ローズカット』とか袋にひとつひとつ貼ってあるラベルを確認しながら、デザイナーが指定した『八ミリ・ペアシェイプ・ブリリアントカット』を探していた。つまり、涙型のキラキラしたやつだ。袋が小さいので、ピンセットで摘まみ上げながら、僕はラベルを見ていく。全く、目の痛くなる仕事だ。
半分ほど見たところで、ようやく目当てのものを見つけ出した。手に取り、窓の光にかざす。
キラ、とレモン色のガラスが輝く。その瞬間、僕の脳裏にある言葉が浮かび上がった。
星。
──空には星が輝いていた。無限に広がる闇の中、まばゆく光る小さな星が、無数に散らばり、僕らを包み込んでいた──
古い本の中の一節だ。僕はそれを小さく口に出してみる。
星って何だろう、と考えた。小さなガラス玉の入った袋を光にかざしたまま、微妙に向きを変えてみる。細かくカットされた面のひとつひとつが、キラキラと光を弾いた。
星ってどんなものだろう。何で出来て、どんな形をしているんだろう。
まばゆく光る。小さい。無数の……。
それはもしかすると、このガラス玉のようなものなのだろうか。
星とは、夜、暗くなった空に現れて光るもの。幾つかの本の記述から、そういうものらしいと分かっている。夜になれば確かに、上空に明るい光が灯る。しかしそれはきっと『星』ではない。だってそれは……。
「ヨウ、今日の帰りヒマか? 飲みに行こうぜ」
目の前の窓から突然マークが顔を出した。驚いた僕はせっかく見つけた小袋を指の間から取り落としてしまった。幸い他の袋がみっしりと縦に並んでいたため、行方が分からなくなることはなかったが。
「マーク……そこから声掛けないでくれって前にも……」
以前も同じことをやられて作業をミスってしまったことがあったのだ。
「ああ、悪い悪い。で?」
マークは悪びれる様子もなくニカッと笑った。能天気の神様のような彼の笑い顔を見て、僕は身体から力が抜けてしまった。いつもそうだ。マークに対して怒りという感情を維持できたためしがない。これが人徳とか人柄とかいうものだろうか。しかしまあ、それはいいとして、マークはしょっちゅうこんな感じで飲みに誘ってくるのだった。酒と賑やかな場所が大好きなのだ。誘ってくれるのは嬉しいが、残念なことに僕はマークとは正反対の性格だった。
「悪い。今日は仕上げたい仕事があるから」
僕はわざと無慈悲に言った。ペースにのせられてしまったらおしまいだ。工房に入りたての頃は、マークの口車に乗せられて気付いたら酒場にいる、ということが何度あったことか。
「ええー、マジでー? つまんなーい。付き合えよー」
マークはまるで子供のように駄々をこねる真似をした。僕は思わず笑ってしまう。
「昨日も行っただろ。また今度付き合うよ」
「ちぇー、じゃあまた今度な」
そう言って歩き去るマークの後ろ姿を僕は見送った。洗い晒しのTシャツに裾をまくり上げたチノパン、そして素足にサンダル。どこのプータローかと思うような出で立ちだが、これでも彼はこの工房のトップデザイナーだ。
しかも傘がピンク色だ、と僕は思った。鮮やかなピンク色に白の水玉模様。奥さんのだろうか。しかし派手だな。
仕事に戻ろうとしたところで、外からマークが叫ぶように言った。
「リリィちゃんがおまえに会いたがってるぞー!」
「あいよー」
適当に手を挙げて僕は答えた。
引き出しを戻し、作業机の上にデザイン画を広げる。じっとそれを見つめ、思わずニンマリとしてしまった。全く、あの男のどこにこんな繊細な美意識が潜んでいるんだか。まるで植物の蔓ように細い金の曲線が絡み合うピアスのデザイン画はマークが描いたものだ。優雅で洗練された、美しいデザインだ。
人は見かけによらないな。
「さてと、掛かるか」
デザイナーのイメージしたものを忠実に形にするべく、僕は気合いを入れ直した。十八歳で工房に入って三年が経つ。仕事にはだいぶ慣れたが、マークのデザインを形にするにはまだまだ気合いが必要だ。