長編小説

彼女がドーナツを守る理由 3

 ピアスを左右とも仕上げた時には、工房に残っているのは僕ひとりになっていた。片付けをし、戸締まりをして外に出る。工房の前の庭に立って、僕は顔を仰向けた。
 すっかり暗くなった空には、『太陽』の代わりに煌びやかな光が瞬いている。
「あれが星なのか?」
 僕はひとりつぶやいた。
 まばゆく光り、小さく、無数に散らばるもの。本で見る『星』の描写と一致している。しかし『星』について本から得られる情報はあまりにも少なかった。僕が知る限りでは、星という言葉が出てくるのは古い本──紙が茶色く変色し今にもバラバラになりそうな古い本の中だけで、それも例えば『コップ』とか『本』とかいう言葉のように、説明する必要もなほど当たり前の言葉のようにサラッと出てくるだけだった。新しい本になると、もう星という言葉じたいどこにも出てこない。大昔は普通に使われていたけれど今はもう忘れ去られた言葉なのだろうか。
「夜空にあって光るものといったら、あれしかないけど……」
 遥か上空に輝くのは、夜の繁華街の光だ。反対向きの重力によって引っ張られている街。しかしその光を『星』と呼ぶ人に今まで一度も出会ったことがない。
 繁華街の光が見られるのは上空に限ったことではないし、と僕は思った。
 世界は丸く繋がったチューブ状、つまりドーナツの内側のような形をしているから、夜の街が輝く様は都心にいれば三百六十度どこにだって見られるのだ。今は夜だから消灯しているが、こちら側の地面と上空に見える地面とのちょうど真ん中には『太陽』が浮かんでいる。『空』とは本来、太陽の周りの空間を指す言葉である。ということは、星は太陽周辺に現れるのだろうか(ちなみに太陽は世界に四つあり、”ドーナツ”の中を均等に照らすようにお互いが電波を出し合って常に均等な距離を保っている。太陽にはそれぞれ、ノース、サウス、イースト、ウエストと名前が付いており(聞いたところによると神話の女神の名前に由来しているらしいが、情報源がうちのおじいちゃんなので本当かどうかは分からない)、主に恩恵を受けている太陽によって地区の呼び名はざっくり四つに分けられる。例えばノース地区、イースト地区、といったように)。
 空に浮かぶ真っ黒い岩のような太陽のまわりに僕は目を凝らした。いくら見つめていても、そこに光が現れることはなかった。

 僕が『星』という言葉を初めて知ったのは十歳の時だった。
 自宅の一階の一番奥まったところ、窓からの自然光が届かない薄暗い場所には、まるで秘密の洞窟のように祖父の書庫があった。作家だった祖父は、その部屋に夥しい量の蔵書を詰め込んでいた。僕はその場所がお気に入りで、毎日潜り込んでは主に物語の本、特に冒険や魔法の出てくる本を読み漁っていた。
 書庫は灯りといえば裸電球がぶら下がっているだけで、本の上や隙間には埃が積もり、お世辞にも子供にとって良い環境とは言い難かった。そのため父(潔癖症)はこの部屋を毛嫌いし、僕にも入ることを禁じていたが、僕にとっては物語が一杯に詰まったこの部屋はまさに夢の国だった。

 その日も僕は本棚と本棚の間の狭い通路に嵌まり込むように座って冒険小説を読みふけっていた。その本はかなり古く、茶色く変色したページは枯葉のようにパリパリしていた。物語は、見知らぬ世界に突然放り出された少年が元の世界に戻るために旅をする、というものだった。僕は古い本を壊さないように注意しながらも、時が経つのも忘れるほど夢中になって読んでいた。
 主人公の少年ハシは、ラクダに乗って荒野を進んでいた。夜になっていたが、休むわけにはいかなかった。何故ならこの荒野は横断するのにまる一日かかるほど広大で、見渡す限りなにもない荒れ地は身を潜める茂みひとつないのだった。こんなところで休んだりしたら、即魔物の晩餐になってしまう。ハシは歩き続けるラクダに声を掛けながら、手綱を握っていた。ラクダの腹の横では荷物のコップや鍋がカチャカチャと音を立てている。ハシは眠たくなりそうな頭に気合いを入れるため、腰に差した冷たい日本刀に手を触れた。この世界に来る直前にいた修学旅行先の土産物屋で買ったレプリカだが、ここでは意外と使えるらしいその鈍色の刀。出席日数どうなるんだろう。命すら危うい異郷の地でそんなことを考えながら、ハシはふと空を見上げた。空には、無数に輝く星が……。
 とここで、見たことも聞いたこともない言葉、『星』が突然現れたのだった。流れるように進んでいた物語はそこで一時停止ボタンを押したようにピタリと止まってしまった。『星』という謎の言葉を見つめ、僕は首を傾げたのだった。

『星』についての祖父の知識も、あまり頼りになるものではなかった。祖父の見解では、星は「演出効果の高い照明の一種」だった。そして正解が何かを知ることには興味がないようだった。純文学の祖父にとっては、空に浮かぶナゾの光は専門外だったのだ。
 仕事の合間に祖父は、二人分のおやつを持ってよく書庫にやってきた。僕がいつもそこに潜んでいることを祖父は知っていたのだ。祖父が持ってきたおやつを食べながら、一緒に本を読むのは楽しかった。僕は基本的にひとりでいることを好む質だったが、祖父だけは特別だった。祖父は僕の良き理解者であり、同志のようだった。僕もまた、祖父の良き理解者であると思っていた。僕と祖父はよく似ていた。祖父は夢想家で、いつまでも子供のような人だった。
 高校生になると、僕は自分でも小説を書くようになった。中学の時に亡くなった祖父と同じ道を歩みたいという思いもあった。祖父は僕に将来の夢を与えてくれた。
 そしてそれとは別にもうひとつ、祖父は僕に与えてくれたものがあった。
 任務だ。
「極秘の任務だぞ」
 と祖父は小学生だった僕に言った。書庫の片隅、本棚と本棚の間の狭い通路で、おやつの饅頭を頬張りながら。
「穴を掘るんだ。もう大分堀り進んでおるが、わしはもう続けられそうにない。わしは親父から引き継いだ。親父は親父の親父から引き継いだ。とても深い穴だ。とてもとても、な」
 ごっくん、と祖父は饅頭を飲み込んだ。
「ヨウ、おまえが完成させてくれ。おまえの親父には任せられん。奴はロマンの欠片もない男だからな。たぶんもうすぐ向こう側に通じる」
「どこに通じるの」
 僕が訊くと、祖父はさも嬉しそうににったりと笑い、こう言った。
「別世界だ」

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