長編小説

彼女がドーナツを守る理由 5

 ダイニングバー『トーラス』は、勤務先である工房から最寄り駅までの道の途中にある。酒だけでなく食事のメニューも充実していて、気易い雰囲気で値段もそれほど高くなく、しかも夜遅くまで営業している。必然的に、僕やマークの行きつけの店になるわけである。
 メタリックブルーの扉を潜ると、マットな質感の艶消しステンレスのカウンターと四つのテーブル席があり、天井から吊り下げられた幾つものドーナツ型の照明が、店内をぼんやりと照らしている。ちょっと非現実的な感じの店だ。ちなみに店名である『トーラス』とは、円環面、つまり円周を回転して得られる回転面のことで、つまりは簡単にいうと、ドーナツ型のことである。

 待ち合わせの時間に店に行くと、カウンターでマークがリリィに絡まれていた。
「ねえ、マーク、ヨウくんは? ほんとに来てくれるんでしょうね。あんたいつも会わせてやる会わせてやるって言うくせに……」
 ゆるくウェーブのかかった金髪の女がマークの首に手を掛けてゆさゆさと揺さぶっている。恐ろしい光景だ。僕は入口のところから先へ進むのをちょっと躊躇してしまった。
「おおー、ヨウ!」と、しかし僕が来たのに気付いたマークがほっとした顔で叫んだ。「助けてくれ! リリィちゃんに殺される」
「ヨウくん!」
 リリィはぱっとマークを解放し、僕のほうへ駆け寄ってきた。抱き付かんばかりの勢いで身体を寄せてくる。甘ったるい香水の匂い。途端に僕は帰りたくなってしまう。
「や、リリィ。久しぶり」
 辛うじて笑顔を作って彼女に向けた。
「ヨウくん会いたかった。ねえ、元気だったあ?」
 甘えるような声で言いながら腕を絡ませてくるリリィはすでに酔っているように見える。
「もう酔ってるの?」
 と訊くと、
「やだあ、普通のテンションだもん」
 と頬を膨らませた。
「ヨウ、何飲む?」
 一命をとりとめたマークが晴れやかな笑顔で言う。
「ビール」
「すいませーん! ビール、大ジョッキで!」
 よく通る高い声を張り上げて、リリィがすぐそこの厨房に叫んだ。

リリィは三ヶ月前に知り合った女の子だ。僕より二つ年下の十九歳。飲み会好きのマークに付き合わされてたまたま知り合ったのだが、一体僕のどこを気に入ったのか、それ以来僕になついてしまっているようだった。リリィの若い女の子らしい無邪気さや明るさは、可愛らしくはあったが、正直僕はリリィが苦手だった。疲れてしまうのだ。彼女のようなテンションにはとても付いていけない。僕は若い人たちといるよりも年輩の人や老人といるほうが気持ちが落ち着いた。賑やかな場所より静かな場所が好きだし、小説や映画や音楽でも明るいものより暗いものが好みだ。街の景色も昼間より夜のほうが良い。昼の空より夜の空。数百万個の電球が強烈な光を放つ太陽より、夜空に輝く、小さな……星? 星ってどんなものだろう?
「ヨウ、ヨウ! 何考え事してんだよ? またおまえは、ひとりの世界に入り込んで! 戻ってこい! このやろっ」
 マークが僕の横っ腹に食らわせた一撃で、僕はまた星のことを考えていたことに気が付いた。最近の僕は、以前にも増して星のことばかり考えるようになっていた。
 星って何だろう。
 星って何だろう。
 考えても考えても分からなかった。
「なあ、マーク、リリィ、星って知ってる?」
「ほし?」
 マークとリリィが声を揃えた。
「知ってるさ。未確認生物のことだろ」とマークが言った。「湖に住んでるんだ。直径十五センチくらいの球体で、縄張りに入ってきたスイマーをガブリと喰う」
「リリィも聞いたことある。友達のご先祖さまが星に食べられたって。でもさマーク、十五センチの球体なんて簡単にやっつけられないかな」
「凶暴なんだよ。そして恐ろしくすばしっこい。一説によると、最大で秒速約三十万キロメートル出るらしい。目にも止まらぬスピードだ。狙われれば命はないってわけだ。ところで星がどこから来たか、知ってるか?」
「知らない。どこ?」
「DBA基地だ」
「DBA基地? やだあ、マーク、そんなのまだ信じてるの? DBAなんかないって、リリィだって十歳の頃にはもう知ってたもんね」
「いいや、あるさ。星はDBAが密かに作った生物兵器なんだ」
「キャハハ、マークのバカ。バカマーク!」
 的外れな方向で盛り上がっている二人に僕は思わずため息を吐いた。
「おまえらに訊いた僕が馬鹿だったよ」
「そうだとも。おまえは馬鹿だ。未確認生物なんかより気にするべきことがあるだろう。ヨウ、相談に乗ってくれ。行き詰まってるんだ」
 こうして星の話題は簡単に片付けられてしまった。と、その時突然、ビーッビーッとけたたましい音がして、その場にいた全員が自分の携帯電話を手に取った。緊急のニュース速報だった。
「捕まったか」
 とマークがつぶやいた。昨日の朝テレビで観た、公園に穴が掘られた事件の犯人が逮捕されたのだ。
 犯人は五十五歳の無職の男性。刑務所に入りたくてやったが、怖くなって逃げたということだった。防犯カメラの映像が公開され、それを見た人からの通報であっさり捕まった。
「馬鹿だな……地面に穴なんか掘ったら、刑務所行きじゃ済まないこともあるってのに」
「えっ、マーク、この人どうなっちゃうの?」
 リリィが心配そうに尋ねた。犯人の身を案じているのだろうか。知り合いというわけでもなかろうに。
「いや、大丈夫だろう。このくらいならおそらく懲役十年くらいなものだ」
「そっかあ。良かった」
 良くないだろう……いや、良いのか。犯人がそれを望んでいるのだから。僕は枝豆をプチプチと食べながら思った。
「ヨウ、おまえも家に庭があるからって、間違っても野菜を作ってみようなんて気を起こすなよ」とマークが話を振ってきた。「野菜はな、八百屋で買えばいいんだからな」
「分かってる。大丈夫だよ」
「どうだかなあ。おまえは突然突拍子もないことをしでかしそうだからな」
「どういう意味よお。ちょっと、ヨウくんいじめないで」
 とリリィがマークに食って掛かる。まあまあ、と僕はリリィをなだめ、
「そういえば、何、相談って」
 とマークに訊いた。
「ああ、そうだった。よくぞ訊いてくれた。これなんだが……」
 マークは鞄からスケッチブックを引っ張り出した。

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