長編小説

彼女がドーナツを守る理由 4

 家に帰り着いたのは夜中近くだった。僕は台所でカップラーメンを作って食べ、シャワーを浴びるとすぐに寝た。
 祖父と両親と共に暮らしていた、木造二階建てで小さな庭もあるこの家に、僕は現在ひとりで住んでいる。僕が高校を卒業すると同時に父は突然起業すると言い出し、ビジネスやアミューズメントの中心地があるイースト地区へ母と共に旅立った。それ以来両親とはたまに電話をするくらいだが、どうやら上手くやっているようだ。3LDK書庫付きの家はひとり暮らしにはやはり広く、二部屋は物置のようになってしまっている。僕は元々自分の部屋として使っていた二階の一室で寝起きし、台所でコーヒーを淹れたり簡単な調理(たまごや魚や肉を焼くくらいだ)をしたりし、リビングで食事し本を読み、まるでおとなしい虫のようにひっそりと暮らしていた。

 祖父との約束を思い出したのは、ひとり暮らしを始めて半年経った頃のことだった。その日は三か月に一度やってくる三連休の二日目で、暇を持て余した僕は家中の掃除をしていた。書庫の床を箒で掃いていた時、そういえばじいちゃんが昔、変なことを言っていたなあと思い出したのだった。
──庭に深い穴を掘っているとか何とか……。
 掃除を中断し、庭を見に行った時には、正直そんな話は嘘だと思っていた。地面に穴を掘ることは法律で固く禁じられているのだ。宝箱を埋めることすら法律違反なのに、祖父の言っていた「とても深い穴」があるとしたら、一体どれほどの罪になることか……。自分の身内がまさかそんな重大な犯罪に関わっているはずがない。そう思っていた。
 それでも確かめに行ったのは、どこかで、もし本当だったらおもしろい、と思う気持ちがあったからだ。
──あるはずなんてない。でも、もし本当なら。
 祖父は言っていた。異世界へ通じる穴だと。
──別の世界なんてあるはずがない。世界は綺麗に閉じていて、他にはないことは明白だ。
 ロマンだ、と祖父は言っていた。
 そうだ、ロマン。つまりはただの夢物語。

 案の定、庭にそれらしき穴はなかった。半年の間手入れをせずに放置していた庭には雑草が生え、空っぽの古いプランターが幾つか重なっているだけだった。
 少しがっかかりしつつ、安堵もしていた。祖父との約束を破るのは心苦しかったから。
 しかし掃除の続きをしようと家に戻り掛けた時、庭の隅にある小屋が目に留まった。その小屋は昔からそこにあった。僕が生まれた時にはすでにあった。
 まだ小さかった頃、庭で遊んでいた時に僕はこの小屋に近付いてみたことがあった。扉には鍵が掛かっていたが、ペラペラと頼りない扉は、押すと少し隙間ができた。その隙間から中を覗いてみようとした時、「ヨウ!」と父親に怒鳴られた。その時の父はすごく怖い顔をしており、幼いながらに僕は、この小屋には近付いてはいけないのだと悟ったのだった。それ以来僕はこの小屋に近付くことなく、そのうちに気にすることもなくなった。
 ガレージだと聞いていた。車を停めておくところだと。しかし奇妙なことに今気が付いた。うちには自家用車はなかったはずだ。

 小屋は錆び付いたトタンで出来ていた。大人がちょっと力を加えたら崩壊しそうなほどのボロ小屋だ。入口の扉には南京錠が掛かっていたが、それを開けるための鍵もそこに一緒に付いていた。それだけで中には大したものは入っていないだろうと想像がついた。
 まあいい、大掃除のついでだ。僕はそう思い、南京錠を外して扉を開けた。

 その扉の向こうに現れた物。
 僕は我が目を疑った。

 朝からニュースが騒がしい。『LIVE』と表示の出ているテレビ画面の中では、ヘルメットを被ったキャスターが緊迫した口調で現場の様子を伝えている。映っているのは、僕が住んでいるノース地区にある公園だった。芝生の広場のある公園で、子供が自転車の練習をしたりフリスビーで遊んだり、敷物を広げてちょっとしたピクニックもできる場所だ。僕も自転車はここで覚えたし、学生時代は隅のほうに寝転んで本を読んだりもした。
 普段は長閑なその場所に、何台ものバンやパトカーが停まり、張り巡らされた黄色いテープの周りを取り囲んでいた。
「──穴は直径およそ五十センチメートルで、深さは三十センチはあるかと思われます。犯行時刻は昨夜零時頃とみられ……」
 ヘリコプターから撮影された現場の映像が流れる。
 芝生の上にテープで大きく囲まれた範囲の中に、かろうじて確認できるくらいの茶色い点が見える。僕は歯磨きをしながら、画面に顔を近付けた。
 ああ、まあ確かに、あることはあるが。でもこれくらいなら、誰でも掘ったことがあるんじゃないのか? 見つかったからアウトなのか? 
 物々しい現場の様子とは裏腹に、僕はそのくらいしか思わなかった。ふーん、そう。それで? という感じだ。
「近所の住民からは、夜中に不審な物音を聞いた、という情報が寄せられています。幸い怪我人はいなかったもようです。以上、現場からでした」
 バラバラバラ、とヘリコプターの音が家の外で聞こえていた。

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