長編小説

彼女がドーナツを守る理由 12

第二章

 見渡す限り、視界いっぱいに広がった、広大な黒い空間と、それを埋め尽くすほどの、たくさんの小さな小さな光の粒。キラキラと輝いて、まるで包み込むように、本当にたくさん。
 星……これが星なんだ。

 こうして星との感動的な出会いを果たした僕だったが、すぐにそんな浮かれたことを言っていられる状況ではないことを悟った。誰かが僕のすぐ横で、僕に向けて武器を構え立っていた。
 顔の横数センチのところに迫った銃口──そっと横目でうかがうと、銃口が大きい。ピストルではななそうだ──それを構えている人物の、密やかな息遣い。引き金が引かれれば、この場で僕は死んでしまうだろう。
 ああ、でも、もういいだろうか、と僕は思った。
──じいちゃん。約束は果たしたよ。じいちゃんたちが引き継いできた夢は、ようやく果たされたんだ。
 死ぬ時というのは、意外と落ち着いているものなんだな。書きかけの小説でもあったら違ったのだろうか。僕はそんなことを思いながら、顔を前に向けたまま両手を挙げた。銃口はぴくりとも動かない。目の前には一面の星空。美しすぎる絶景。やっと出会えたと思ったら、もうお別れか。
 覚悟を決め、目を閉じた、その時。
「あなた……何?」
 と、僕に武器を突き付けている人物が言った。驚いたことに、その声は若い女性のものだった。しかも彼女の声は威嚇や詰問とは程遠く、おずおずとして、むしろ怯えてさえいるようだった。僕は手を挙げたまま、彼女のほうへ顔を向けた。彼女が僕に突き付けているのは、彼女の身体には不釣り合いなほど馬鹿でかいバズーカ砲だった。肩に担いだそれを彼女はまだ僕に向けたままだったが、顔を見れば撃つ気がないことが分かった。彼女は困惑した顔をしていた。
「とりあえず、それ下ろしてくれませんか?」
 と言うと、彼女は素直にバズーカを下ろしてくれた。しかし武器は下ろしてくれたが、もっと破壊力のありそうな大きな瞳でひたと僕を見据えている。彼女に僕がどう見えているのか分からないが、彼女は一体僕が『何』であるのか、一生懸命に頭の中のデータと照合しようとしているかのようだった。
 何て美しい人なんだろう、と僕は思った。全く、僕は馬鹿なんじゃないだろうか。こんな状況にも関わらず、彼女に対して僕が感じたことは、ただそれだけだった。まるで水の流れのように滑らかな長い黒髪、色白で華奢な身体、完璧に整っていながら、憂いを秘めたようなその顔。そして濡れたような大きな瞳は、周囲の闇と同じ漆黒だった。その瞳の中にも、星が輝いているようだった。
 僕らはどのくらい見つめ合っていたことだろう。やがて彼女が、
「分からないわ」と言った。観念したように、ため息まじりの声で。「あなたは異星人じゃないわね」
「いせいじん?」
 何のことだ? 僕は何を言われたのか分からなかった。
「そうよね。あなたは空からやって来たんじゃない。地面から出てきたんだもの……新種の植物なのかしら?」
「違うと思うよ」
 僕は笑いをこらえて言った。笑っては失礼だと思ったのだ。彼女は大真面目だった。
「見た目はあたしたちと同じだわ。名前はある?」
「ヨウ」
「ヨウ。名前の意味は?」
「リーフ。古い言葉で『葉っぱ』という意味だ」
「葉っぱ……やっぱり植物っぽいわね。ヨウ、あたしはモカよ」
「よろしく、モカ」
「言葉も通じるのね……」彼女は少し考え、つぶやくように言った。「殺しちゃまずいかしら」
「できればまだ死にたくないかな」
「そうよね。じゃあ来て」
 そう言うとモカは僕の手を引いて歩き出した。
「あたしだけでは判断できないわ。支局長に見てもらうから、一緒に来て」
 支局長って誰だ、何の支局だ、と僕は思ったが、それよりも初対面の美女と手を繋いでいることのほうが気になった。
「どうして手を繋いでるの」
 と訊くと、
「手錠がないんだもん」
 とモカはあっさりと言った。

 身長の三分の二ほどもあるバズーカを、モカは軽々と肩に担いでいた。
「重くないの、それ」
「重くないの。軽量レーザーバズーカだから」
「ふうん。ちょっと見せ……」
「触っちゃだめ。危ないから。間違ったら一瞬で黒焦げ」
 つくづくと彼女にはこの武器が不似合いだった。小柄で華奢なせいもあるが、彼女の服装が、まるで踊り子のようなのだ。綺麗な色の布を重ねたゆったりとしたロングスカートに、小さな鈴の付いたベルト、上半身に着ているものはチューブトップのようにピッタリとしていて、細い腰と肩が露出している。夜道をこんな女性がひとりで歩いていたらとても危険だと思うのだが……まあ、あのバズーカがあれば大丈夫か。
 人気のない道をしばらく歩くと、路肩にメタリックな赤い車が停まっていた。モカは鍵もリモコンも使わない何らかの方法で開錠すると、
「はい、乗って」
 と言って僕を助手席に押し込んだ。後部座席にバズーカを載せ、ベルトで固定すると、彼女は運転席に乗り込んだ。
「君の車?」
「ええ。シートベルト」
「あ、はい」
 モカはエンジンを掛け、アクセルを一気に踏み込んだ。ブオン、と音を立てて車は発進した。
 街はほどんど真っ暗だった。今が何時なのか知らないが、建物の明かりは全て消え、まばらに立つ街灯がぼんやりとした光を放っているだけだ。人影もなく、道路を走っているのはモカの車一台だけだった。
 何て寂しい世界なんだろうと僕は思った。これが『別世界』なのだろうか。
 一応街はあるのだから住んでいる人間がモカひとりだけということはないと思うが、それでも、行けども行けども真っ暗な窓の並ぶ無機質な建物ばかり。生きた人間の気配もない光景は、寒気がするほど寂しいものだった。僕はお祭り騒ぎの最中にある自分たちの街を思い返していた。何て違いなのだろう。ガラガラに空いた街の中を、モカは時速百キロ以上のスピードで走っていた。
「モカ、モカ、危ないって! 人轢いたらどうするの」
 無人に見えてもやはり全くの無人というわけでもあるまい。建物の陰からひょっこり人が姿を現すかもしれず、モカの荒い運転が気になって僕は言った。見晴らしの良い野原ならまだしも、一応街中なのだ。
「大丈夫よ。ぶつからない・・・・・・から」モカは自信たっぷりに言った。「こんな時間だしね。それにあたし、視力は良いのよ」
「視力の問題? ……こんな時間って、今何時?」
「ひみつー」
 時計を見るのが面倒なのだろうと思い、僕は携帯電話を出して時刻を見た。僕の携帯は午後三時を表示していた。昼下がりってやつか。穏やかじゃない昼下がりだ。
「でもそうか、ある意味反対側の世界だから、昼夜が逆なのかな。こっちは今、夜なんだろう?」
「こっちってどういう意味? 今はどこもかしこも夜よ」
「こっちっていうのは、ええと、つまり……」
 その時急ブレーキの音と共に車が停まり、僕はガクンと前に倒れそうになった。
「着いたわ。はい降りて」
 車が停まったのは簡素な平屋の建物の前だった。住宅街やビル街から離れた、空地のような寂しい場所にポツンと一軒。プレハブ小屋のような建物だ。窓に明かりが灯っている。モカは僕の背中を押してその建物の中に入らせ、自分も入るとドアを閉めた。パタン、といかにも頼りない軽い音がした。

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