長編小説

彼女がドーナツを守る理由 7

 途中、きっとここが『真ん中』なのだろう、という地点を通過する。その地点に近付くと、身体が重くなったように感じるのだ。進み続けると、圧し潰されるような圧迫を感じるようになり、息苦しく、どちらが上でどちらが下なのかも分からなくなる。それでもとにかく先へと進むと、その感覚は薄れてゆく。無我夢中で苦しい地点を越え、はっと気付けば重力の向きが反対になっているのである(この地点を掘ることになったご先祖に僕は問いたい。一体どうやって掘ったんですかと)。
 ここから先は、登りながら上に向かって穴を掘る。日常ではあり得ない状況なので、かなり奇妙だ。しかしこの奇妙さこそが、僕をこの地味できつい作業に駆り立てる原動力になっていた。きっとこの先には、普通ではない何かがある。その確信があるからこそ、こんなことを一年もの間続けてこられたのだ。

 ヘルメットに付いたライトで照らし出される壁には、ジョイント式の梯子が掛かっていて、一定の間隔を置いてペグで壁に固定されていた。僕もそれに倣い、継ぎ足しながら先へと進んでいる(メジャーな商品なのでどこでも売っている)。
 さて、上に向かって穴を掘るのであるが、そのままスコップでガシガシやったのでは当然土を全部被ることになる。これでは土まみれになってかなわないので、僕は透明ビニールシートで防御しながら作業を続ける。梯子につかまって頭上の土をそぎ落とし、真ん中地点のところに溜まったのをバケツに入れて、地上に引き上げて外に捨てる。二十代の青春も一緒に投げ捨てている気がしてならないが、ここでやめるのも癪なので得意の想像力(妄想力か?)を総動員して何とか頑張っている。くたびれるまで作業をして地上に戻ると、もう夜が明けかかっていた。

 空を見上げると、大きな湖が見える。これはトコ湖といい、ノース地区で最大の湖だ。漁船や遊覧船が行き交っているのがここからでも見て取れる。湖のほとりの一部地域は有名な観光地で、景観規制により屋根が全て赤で統一されている。視線を上方から前方へずらしていくと、物差しで線を引いたように縦横に走る真っ直ぐな道路。その道路が作るマス目の中には高層ビルがみっちりと立ち並んでいる。こういうオフィス街は夜になると、まだ家に帰らない社畜たちが綺麗な明かりを灯してくれる。また目を転ずれば、ブロッコリーを敷き詰めたような森や、遊園地、田園地帯……。
 休日になると、僕はよく周囲の風景を長い間観察してしまう。そのたびに不思議に思う。世界はドーナツの形をしているのだから、地面が湾曲しているのは明らかなのに、どうしてそれを身体で感じることがないのだろう。
 それは人間に対して世界があまりに巨大だから、ということは理屈としては知っている。しかし目に見える世界をじっと見ていると、どこかに地面の湾曲を感じられる場所があってもいいはずだと思えてくるのだ。けれど実際そんな場所はどこにもないのだろう。頭上にある街を目指してずっと歩いて行ったとしても、地面はずっと平らなまま、気が付けば反対側の街に立っている。とはいえ対岸──自分のいる地点から丁度真上に見える地点を人々は『対岸』と呼び習わしている──は途方もなく遠いので、そんな実験はほぼ不可能なのだが。
 ほぼ不可能。しかし絶対に不可能というわけではない。大昔の人は、実際にそんな実験を行ったのかもしれない。昔の哲学者の中には、世界の形は平らである、とか、何層にも重なっているのである、とか奇妙な説を唱えているのもいる。何を馬鹿なことを、と初めてそれを本で読んだ時僕は思った。世界は平らで果てがないなど、一体どうしたらそんなことを思い付くのだろう。頭上にある街と自分が立っている地面がひと続きになっていることは、ひと目で分かる明白な事実ではないか。他の形があるかもしれないなんて疑う余地もない。
 しかし、もしかしたら、現実は目に見えているものとは違っているのかもしれない、と僕は考えてみる。頭上の街まで、自分の足で歩いて行って、初めてこの世界の実際の形が分かるのかもしれない。巨大なドーナツの内側のように閉じた形に見えるこの世界は、本当は平らなのかもしれない。本当に果てがないのかもしれない。光の屈折とか、目の錯覚とか、何らかの作用によってこんな風に見えているだけなのかもしれない。『対岸』は、本当は存在しないのではないだろうか。
「架空の街……」
 僕はつぶやき、小説のネタになりそうかどうか考えを巡らせた。どこまでも平らな街の風景が頭の中に広がっていく。自宅の玄関先に座って物思いに耽っている僕の前を、釣り竿を担いだ男数人が通り掛かった。
「ヨーウ、ヒマそうにしてんな」男のひとりが立ち止まって言った。高校時代の同級生だった。「ヒマだったら来いよ。おまえが一緒だと女が釣れる」
 先を歩いていた男たちから笑い声があがった。
「ヒマじゃないよ。哲学中だ」
「何だよ、相変わらず変な奴だな! 哲学って何だ?」
「ばーか」
 同級生の男は笑いながら去っていった。架空の街の構想は霧のように散ってしまっていた。
 道を挟んだ向こう側にある団地からは子供たちが遊ぶ声が聞こえてくる。正午で最大出力となった太陽が放つ、目の眩むような光。役所の散水車が街路樹に水を撒いて回り、隣の家のベランダでは布団を叩く音がしている。世界は今日も平和だった。

 僕は想像もしなかった。僕たちとルーツを同じにする彼女が、あのような過酷な世界に生きているなどとは。僕が硬い殻に護られた平和な世界で空想世界に想いを馳せている間、彼女の美しい黒い瞳が、血に染まった光景を映しているなんてことは、まるで想像もしなかったんだ。

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