長編小説

彼女がドーナツを守る理由 8

「一体何だって雨なんか降らせるんだ? 嫌がらせか? 散水車だけで十分だろ」
 昼休み、マークは機嫌が悪かった。指輪のデザインでまだ悩んでいるのだ。それに追い打ちをかけるように、今日の天気は『大雨』だった。容赦のない量の水が高いところから地上にぶちまけられている。昼飯を食べるために出た往来ですれ違う人たちは傘の下で一様に渋い顔をして、雨を楽しんでいる様子の者はいない。やはりそれが普通なのか? と思いながら、僕はマークに言ってみる。
「僕は好きだけどな、雨。気持ちが落ち着く」
 マークは変な顔をして僕を見た。
「おまえは本当に変わってるな。よし、聞こうじゃないか。雨のどこが好きだ」
「音、湿った空気、雨に濡れた風景。他人が差してる傘のデザインを眺めるのも好きだな」
「そうか。悪いが全然分からん」
 そう言ってマークは濡れたズボンの裾を気持ち悪そうに見た。
 今日の天気予告では、ノース地区の1000番台の地域──工房や僕の家のある地域。つまりはこの辺だ──一帯が午前十一時から午後二時まで大雨だった。でもまあ確かに、昼食の時間に大雨なのは困りものだ(雨に悪い点があるとすれば、服が濡れるところだ)。

 近くの定食屋で話を聞くと、マークの悩みの原因は単純なものだった。
「俺の愛する女が」
 とマークは言った。信じ難いほど真剣な表情で。マークの『愛する女』とは、彼の妻、マチルダさんのことだ。
「ひと月ほど前にリビングで雑誌を見ていたんだ。それは女性向けのファッション誌だったんだが、妻があるページをえらく真剣に眺めていてな。結婚記念日が近いことだし、欲しいものがあるなら買ってやろうと思って、妻が風呂に入っている隙にその雑誌の折り目の付いたページを開いてみた」
 マークはここで言葉を切ってカツ丼のカツを口に運んだ。苦渋に満ちた表情は、「見なきゃ良かった」と言っているようだった。
「特集が組まれていた。ジュエリー特集だ。妻が見ていたのは、レッドフレイムが一面に並んだページだったんだ。もちろん買うことなんぞできやしない。すべて非売品だ。どこぞで借りてきたレッドフレイムの写真で惹き付けておいて、次ページからの模造品を買わせる戦略だ。クソ、せこい手を使いやがって、アホ雑誌め!」
「だから自分で本物を作ってやろうと」
「そういうことだ」
 鼻息荒くマークは言った。マークには悪いが、僕は微笑ましい気持ちになってしまった。いい加減そうに見えて、奥さんのことだけはいつも真剣なのだ。
 運命の女。
 三年ほど前、マークとマチルダさんがまだ婚約中だった頃、マークはよくそんな言葉を口にしていた。曰く、人にはこの世でひとりだけ運命の相手というのがいて、その人と出会ったなら、ひと目でそうだと分かるのだという。俺はその人を見つけた、と。僕はマークの説をおもしろいと思った。まるで神様が仕掛けた『片割れ探しゲーム』のようだ。
 しかし、おもしろいとは思うが、僕はマークの説に賛同はしない。人はとかく何にでも意味を付けたがる。自分にとって都合の良い偶然を運命と呼び、都合の悪い偶然も運命と呼ぶ。僕の考えでは、運命なんてものはない。全てはただの偶然だ。たまたま出会った相手を最高だと思えばそれが運命の出会いになる。それだけのことだ。
「マーク……残念だけど、どうにもならないよ。レッドフレイムは僕らの手に入るようなものじゃない。世界中でも数えるほどしかなくて、それがあるのは大金持ちの家か、博物館か、でなきゃ本の中だ。分かってるだろ」
「博物館に強盗にでも入るか」
「現実的だね。でも賛成はしないな。すぐに捕まるよ」
「冗談だ」マークはため息を吐いた。僕にはマークがレッドフレイムの話を持ち出した時から冗談にしか思えていなかったが、それは言わないでおいた。「新しい鉱脈がみつかればなあ……。地中にはおそらくまだ埋まってるやつがあるはずだ。そいつを掘り起こすことができればいいんだが」
「結婚記念日は刑務所の中で過ごすことになりそうだなあ……」
「刑務所ならまだいい。もしかしたら神隠しに遭うかもな」
 マークは投げやりな笑みを浮かべながら言った。
「……怖いこと言うなよ」
『神隠し』はDBA基地のような都市伝説ではない。ある日忽然と人が姿を消す、そんな出来事は、頻繁にあるわけではないが、それでもこれまでに何度かは耳にしたことがあった。初めは行方不明者として扱われ、捜索も行われる。行方不明者ならば、ほとんどは見つかるし、見つからなかった場合も見つかるまで捜索は続けられる。
 しかし『神隠し』の場合は違う。行方不明になって二、三日ほどで、〇〇さんは神隠しに遭っていたことが分かりました、という旨の報道が簡潔にされ、それで事件は終わりだとみなされるのが常だった。『神隠し』だと結論されれば、誰もそれ以上深追いはしないらしい。僕も身近に起こったことがなかったのであまり気にしたことがなかったが。怖いですね、気を付けましょう。それで終わりだ。考えてみれば不思議なことだ。
「マーク、もしかして『神隠し』について何か知ってんの?」
 僕は小声でマークに訊いた。
「何も知らねえよ。あったら嫌なこと言ってみただけだ」
 あー、ビール飲みてえな、とマークがつぶやく。やめときなさい、と言いながら、僕は少なからず動揺していた。刑務所のほうがまだいい、なんて、考えたこともなかったのだ。
 神隠しにあった、と、そう宣言されたら、もう捜索されることもない。

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