「わあっ」
と突然後ろから声を掛けられた。僕は驚き、転びそうになる。振り返ると、リリィがいたずらっぽい笑みを浮かべて立っていた。仕事帰りの駅のホームでのことだ。
「リリィ」
「ヨウくん、今帰り? 偶然だね」
リリィは雑踏のなかでもクリアに通る明るい声で言った。
「うん。これから帰るところ。あれ、ここで会うの珍しいね。リリィもこの辺りなの?」
「ううん、今日はたまたま。近くで用事があって」
長い睫毛を伏せて、金色の髪を耳に掛けながらリリィは言った。リリィは今日も肩やら胸やら脚やらが大きく露出した服装をしていて、僕は目のやり場に困り、意識して首から上だけを見るようにした。女性の肩やら胸やら脚やらは好きなのだが、リリィのように妹のような存在の女の子が惜しげもなく出していると、恥ずかしいような見てはいけないような、居心地の悪さを感じてしまう。
顔ばかり見ていたせいか、リリィがちょっと照れたような顔をして頬を染める。僕はいよいよ見られるところがなくなって、携帯電話をポケットから出して画面を確認する振りをした。
「ね、ヨウくん」
とリリィが言った。
「ん? 何?」
僕は携帯電話を見たまま言った。
「これから用事とかある? せっかくだし、良かったらごはんでも食べに行かない?」
「ごめん。実はこれから親戚の家に行く用事があって……」
そう答えてからリリィを見ると、リリィはショックを受けたような顔をしていた。
「あ……そうなんだ」
「ほんと、ごめん。せっかく誘ってくれたのに」申し訳なくなって僕は慌てて言った。それはそうだ、と僕は思った。リリィのような若くて可愛らしい女の子がノリで誘ったのに、僕のように地味でつまらない男に断られたらそれは気分が良くないだろう。「今度また飲もう。マークと三人で」
「うん、そうだね」リリィは笑って言った。「あ、リリィ向こう側の電車なんだ。もう行かなきゃ」
「そっか、じゃあまた」
「うん、またね」
リリィは手を振り、僕が履いたら絶対に転ぶような高いヒールの靴で小走りに去っていった。カッカッという高い靴音に数人が振り返る。
しまったなあ、と僕は反省した。いつも明るいからといって、僕はリリィに対して無神経になり過ぎているのかもしれない。僕のほうが二歳上なのに、これでは年上失格だ。
しかし、親戚の家に行く用事があるというのは、これは嘘ではなく本当だった。
日の暮れた道の先に見えるその家は、窓から煌々と明かりが漏れ、庭には薔薇や紫陽花など沢山の花の鉢植えが飾られている。花々の中に立つ郵便ポストには、小鳥の形をした可愛らしい飾り。外から見ただけで、温かく幸せな家庭なのだろうと想像がつく。
「こんばんは」
と挨拶をして玄関を入ると、早速アリスとハル──僕の小さないとこたち──の熱烈な歓迎を受けた。二人して可愛い声で「ヨウちゃん、あそんであそんで」と言い、僕の腕や脚にまとわり付く。二人を抱え上げてぐるぐると回ってやると、きゃあきゃあ言って喜んだ。
二人を抱えたままリビングへ行くと、ソファでビールを飲んでいた叔父が、
「ヨウ、来たか。どうだ、最近書いてるか」
と言った。叔父のいつもの挨拶だ。父の三歳年下の弟である叔父──名前をイツキという──は、ひとり暮らしをしている僕を心配してか、よく夕食に呼んでくれた。この日も叔父の誘いをありがたく受け、訪ねてきたのだった。
「いや、最近書けてないんだ。アイデアが浮かばなくてね」
アリスとハルを下ろしながら僕は言った。下りるなりアリスはキッチンへ駆けてゆき、ハルもその後を追っていった。
「アイデアか」叔父は言い、遠くを見るような目をした。「親父がいつも言ってたな。アイデアが浮かばねーって。夜中に叫んでチャリで飛び出して、朝まで帰って来ないってことも何度かあったな。その度に今度こそ親父気が狂ったんじゃないかって思ったもんだよ。おまえは大人しいからそんなことはしないだろうが。ああ、親父元気にしてるかな……」
「じいちゃんならもう死んでるよ」
「天国でだよ。全く、おまえは夢があるんだかないんだか」叔父は苦笑した。「まあ、作品ができたらいつでも持って来いよ。スペースならたっぷり空いてるんだからな」
「ありがとう、叔父さん」
叔父は不定期に出す雑誌を作ることを趣味にしている。内容はその時々で叔父が興味を持っていることがメインで、釣りだったり料理だったり、美術や文学について論じてみたり、好きなことをやっている。その中に地元の行事のお知らせや、企業の広告なんかも載せたりしている。僕の小説も載せてもらったことがあった。全て短編だが五、六編ほど載せてもらった。好評だったといつも叔父は言うが、今のところ叔父の雑誌を書店で見かけたことはない。叔父の本業は花を作る農家だ。最近の出来栄えを聞いているところで、叔母がリビングに入ってきた。
「ヨウちゃん、こんばんは」脚にアリスをくっ付けて、叔母は朗らかに言った。「ごはん出来てるからいらっしゃい」
アリスを脚に付けたまま叔母はダイニングへと歩いていった。
叔母の名前は『ハナ』という。叔父がハナ叔母と出会ったのが先か、花を作る農家を始めたのが先か、僕は知らない。もしやこれも運命とかいうものなのかと思いながら、今まで尋ねる機会を得られないでいる。
ダイニングテーブルには叔母の手料理が並んでいた。ハンバーグ、魚のフリット、花束のようにカラフルなサラダ、野菜たっぷりのスープ。好物のポテトサラダがあるのを見て僕は嬉しくなった。
「ヨウちゃんの大好きなポテトサラダ、アリスがお手伝いしたのよね」
叔母が言うと、アリスはコクコクと頷いた。
「ありがとう、アリス。わあ、美味しそうだな」
「いちばん最初に食べてね」
アリスは僕の手を引っ張って、自分の隣の席に座らせてくれた。
叔父の家での夕食はいつも賑やかだった。アリスは幼稚園での出来事や友達のことをとめどなく話し、叔母が料理の味付けについて尋ねると叔父はいつも美味いと答えた。ハルがアイスクリームを欲しがり、ごはんの後でと言われて駄々をこねる。そんな様子も見ていて楽しかった。自分もいつかこんな家庭を持つことができるだろうかと考えてみる。いまいちイメージが浮かばなかった。そうだ、まずは彼女をつくることが先決だな。僕は思い、ひとり苦笑した。
後に僕は懐かしく思い返すことになる。いつか幸せな家庭を築くのだろうと単純に信じていたこの日のことを。
もしもあの時彼女に出会わなければ、僕のささやかな夢は叶っていたのだろうか。
いや、違う。
もしもあの時、彼女の言う『運命』に抗うだけの強さが僕にあったのなら、もしもあの時、彼女の白く冷たい手を、あんなにもあっさりと離してしまわなければ、僕らの未来は違っていたのだろうか。
ねえ、君はどう思う? モカ。